インセル(Incel)とは、Involuntary Celibateという英語の略語である。直訳すれば、望まない禁欲者、非自発的な独身者、というほどの意味である。日本では「非モテ」や「弱者男性」(マイノリティの属性を持たず、マジョリティの男性ではあるものの、様々な事情から弱さや生活上の困難を抱えた男性たちのこと)などの言葉と重なる面が大きい。
もともとは女性嫌悪やアンチフェミニズムなどの意味合いは含まれていなかったようだ。しかしやがて、非モテや弱者であることを自覚する男性当事者たちが、匿名掲示板などでこの言葉を積極的に用いるようになる。彼らの言動は女性嫌悪、人種差別、暴力肯定などと深く結びついてきた。そして現実に引き起こされているインセルによる暴力犯罪、大量殺戮などが国際的な社会問題となっている。
重要なのは、彼らの女性憎悪的で性差別的な暴力が「われわれの時代の主要な傾向を、極端な形で体現」(フランコ・ベラルディ『大量殺人の“ダークヒーロー”――なぜ若者は、銃乱射や自爆テロに走るのか?』杉村昌昭訳、作品社、2017年、原著2015年)したものであるかもしれない、という点である。とはいえ、一部の人間の過激な暴力や犯罪を、単純に一般化すべきではないだろう。それらを強調しすぎることは、弱者男性たちに対する誤解を拡げるレッテル貼りにもなりかねない。ポイントは、弱者男性/インセルたちの自己破壊的な孤独感、あるいは尊厳を剥奪されていることにある。インセルたちは必ずしも経済的な貧困層に属しているわけではないし、政治的なマイノリティであるとも限らないと言われる。
フェミニズムや多文化主義の観点からみれば、多数派の男性たちは自覚が足りないのであり、男性特権にしがみついている、ということになる。しかし逆に言えば、弱者男性たちの存在は、近年のポリティカル・コレクトネスや多様性を求める流れの中でも置き去りにされてしまっている、とも言える。
「非モテ論」や「弱者男性論」などは、日本版のインセル論である。しかし、これらの言葉のイメージの「軽さ」によって、インセルをめぐる社会問題を矮小化したり、軽く見たりするべきではないだろう。インセル/弱者男性/非モテをめぐる現実は、国際的なアイデンティティ・ポリティクスあるいは再分配的な正義をめぐる問題の最前線の一つと言える。
メディア研究を専門とする伊藤昌亮は、日本国内におけるオタク男性/非モテ/弱者男性をめぐる言説の変遷を分析している(「『弱者男性論』の形成と変容 『2ちゃんねる』での動きを中心に」、「現代思想」2022年12月号)。伊藤によれば、日本の「弱者男性運動」は、1990年代初頭のメンズリブ運動などをもう一つの源流としつつ、オタク文化の拡がり、ネットの匿名掲示板2ちゃんねるの登場、ブログ文化圏の「非モテ論壇」の形成などによって変化を遂げていったという。
それらはもともとは弱者男性たちのセルフヘルプグループ(自助団体)としての機能をある程度持っていたが、やがてレイシズムや排外主義の流れと合流し、また新自由主義的な自己責任論などをも取り込む形で、女性憎悪やアンチフェミニズム的な価値観に基づく「階級闘争」としての側面を強めていった、と伊藤は分析する。
重要なのは、こうした意味での弱者男性的な文化や運動には、様々なスタンスやポテンシャルが混在している、ということだろう。つまり、「弱者男性=アンチフェミニズム」という画一的なイメージだけによっては、インセルの現実を適切に捉えることはできない。ここでは、ひとまずそれを、インセルライト(インセル右派)、インセルレフト(インセル左派)、インセルラディカルという三つのあり方へと要素分解してみる。
インセルライトとは、自分たちの「男」としての鬱屈を攻撃性や憎悪に変換し、それを女性や社会的弱者へと差し向けるタイプの人々であり、「アンチフェミニズム」「アンチリベラル」へと闇落ちした人々のことである。彼らはネット上で女性や性的少数者に対する集団的な攻撃を仕掛けることもあるし、実際に暴力的行動に手を染めることもある。
これに対し、筆者はインセルライトに闇落ちするのではなく、インセルレフトを目指すべきだ、と提案した(『男がつらい!――資本主義社会の「弱者男性」論』(ワニブックスPLUS新書、2022年)。インセルレフトとは、脆弱性や弱者性を抱えて鬱屈し煩悶する男性たちが、それを女性や社会的弱者への憎悪や攻撃に変換することなく、社会変革のための怒りにしようとする姿勢である。目指すべきなのは、どんな性やセクシュアリティを持った人でも幸福に生きられるような社会であり、制度や構造である。
インセルラディカルとは、自分の中の鬱屈や煩悶を他者への攻撃とすることなく、自らの苦しみを自嘲して相対化してみせたり、非モテ意識を他者とシェアしたり、あるいはユーモアをもって現実に笑い飛ばすといった行為によって、非暴力的に処理しようとする人々のことである。自分の中の憂鬱や暴力性を何とかして飼い慣らし、昇華するために試行錯誤を続ける人々、と言ってもいい。近年の非モテ男性たちの当事者研究グループ、あるいはオタク男性たちのセルフヘルプグループなども、そのような非暴力性をめざす男性運動の一環であるだろう。
いずれにせよ、インセル的な男性たちの実態の研究が必要であり、彼らの当事者運動の中の肯定的な可能性を取り出し、ポジティブな未来を展望することが必須である。