しかし、声明文では、返還を求められている博物館側は、現地からの持ち出し方について「もともと存在していた時空間(コンテクスト)から離れてしまった」と、まるで自然に物体が移動したかのような曖昧な表現をしています。また過去の入手方法については、「その時代を反映した異なる感性や価値観」によって評価することを求めています。一方で博物館の使命として所蔵品に対して「継続的な再解釈」、すなわち現在の感性と価値観による解釈を求めています。自らにとって都合の悪い事柄(入手方法)については現在の価値判断を拒み、都合のいい事柄(コレクションの評価)については現在の価値判断を求めているのです。こうした自分勝手なご都合主義が通用するでしょうか。
「ひとの〈もの〉を奪ってはいけない。奪った〈もの〉は返さなければならない」
100年前だろうと500年前だろうと、人間として守らなければならない規範は変わりません。問題となっている文化財が誰のものなのか、どちらのものなのかといった所有権の綱引きに終始するのではなく、どのようにして入手したのか、入手方法の妥当性に着目すべきです。
(2)普遍的(ユニバーサル)の意味
返還を求める側は、「普遍的博物館」が声明で述べるところの「有効で貴重な存在の時空間を提供している」という役割を否定しているのではありません。これまでも世界各地の博物館は、消滅の危機にあった貴重な文化財を救出し、劣化する資料に対しては高度な保存処理を施して現在にまでその姿形を伝え、様々な科学分析を通じて学術に大いに貢献しています。しかし「普遍的」だと自負する博物館ならば、そうした高度な技術や環境の提供だけでなく、それに相応しい倫理観が求められているのではないでしょうか。
現在の社会的な役割が重要だからといって、過去における不当な手続きが容認されるわけではありません。社会的な役割が重要であればあるほど、その重要性に応じた倫理観が求められるのです。
声明で「世界のすべての国の人々に奉仕している」とあるように、博物館の普遍的な価値のひとつとしてコスモポリタニズムが唱えられることがありますが、真のコスモポリタニズムは倫理観を蔑ろにしている限り、実現することはできないでしょう。
返還を拒むその他の論点
以上が「普遍的博物館宣言」の主張に対する反論です。
こうした点以外にも返還要求をめぐり、いくつかの論点があります。
(1)入手方法は「不法でなければいい」のか?
ウィキペディアを見てみると、「文化財返還問題」の項目では、「違法な略奪・盗掘や植民地支配・戦争下での違法な持ち出し」と「売買など合法的な収集」を区別して説明しています。
これについて、日本政府の公式見解を見てみましょう。
まず、2011年に日本から韓国へと返還された「朝鮮王室儀軌(ぎき)」(朝鮮王朝時代の国家的な祭礼や主要行事の詳細を文章と絵図で記録した儀典書。1910年の「韓国併合」後、朝鮮総督府を経由して日本にもたらされ、宮内庁で保管されていた)についてです。日本政府は返還にあたり、正当な方法で入手したのであって不法不正に入手した略奪文化財ではないと主張して、法的な責務を負わない「引き渡し」という表現に固執しました。
日本政府のこうした姿勢は、第二次世界大戦の敗戦後、一貫しています。1946年4月19日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、すべての略奪財産を没収し、GHQに報告するよう日本政府に命じました。対象とされたのは1937年7月7日以降の日本軍占領地における略奪財産で、「日本の法規のうえで合法的であると否とを問わない」とされました。しかし略奪文化財に関する国際法廷は設置されず、日本政府からGHQへの報告は「略奪された考古学資料はまったく見つからなかった」という驚くべきものでした。
この時から30年以上を経て、1973年5月16日、日本学術会議が会長名で内閣総理大臣に「戦時中に中国等から持帰った研究資料の返還について」という申し入れを行ないました。しかしその対象が「中国占領期間中日本人が正当な手続きによらずして入手、持帰った研究資料」とされていたために、ある市民団体から批判を受けることになりました。それは「侵略戦争のさなかに、どのような『正当な手続き』がありえたでしょうか」という本質的な批判でした。
こうした批判は、まさに私たちの「歴史認識」を問うものです。1995年の村山富市総理大臣(当時)談話で示されたように、「植民地支配と侵略によって(略)多大の損害と苦痛を与え」たことに対して「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明することを、私たちは歴史認識の基本としなければなりません。そうしたうえで「合法」と「正当」の違いについて考えることが必要です。
一般に、法律に従った正規の手続きによる入手を「合法的に入手」と言います。それに対して法律に反する方法で入手することを「非合法」あるいは「不法(違法)に入手」と言います(「不当」は「不法」を含む語であると考えてよいでしょう)。法律論では「合法」と「不法」は明確に区別されます。そして、文化財が不法かつ暴力的に入手された場合には「略奪」という言葉が充当されて「略奪文化財」という表現が用いられてきました。
それでは、「合法」であることはすなわち「正当」を意味するのか考えてみましょう。入手方法に問題があるとされる文化財(筆者はこういった文化財を、不動産の「瑕疵〈かし〉物件」になぞらえて「瑕疵文化財」と称している)の返還要求を拒む人たちはよく、「当時の法律に則って入手したもので、正当な手続きによるものである。だから略奪文化財ではなく、返還する義務はない」と主張します。もしこの主張に納得する人がいるとしたら、それは自分の中に「内なる植民地主義」が根付いていることの証と言えるでしょう。