なぜなら、植民地あるいは占領地という特殊な時代環境のもとでなされた「合法的な取引」は、とても「正当」とは言えないからです。決して対等とは言い難い「売り主」と「買い主」の関係において、「売り主」は意に反して「買い主」の示す値段で手放さざるを得なかったのではないでしょうか? 売り主は売却を断る自由がどれほどあったでしょうか? こうした社会関係のもとでなされた「合法的」な商取引は、「正当」とは言い難いのです。
ですから私は「不法であり不当」な入手を意味する「略奪文化財」だけでなくより広い範囲をカバーするために、「合法であるが不当」に入手した文化財については「収奪文化財」という用語を適用することを提案しています。そうすることで、倫理的に問題がある「当時の法律では合法であったが不平等な社会構造における不当な取引によりもたらされた」文化財をより正確に表現することができると考えます。
(2)「返還により文化財が毀損される」という懸念
文化財返還を拒む側から、「文化財保全のための予算や技術が不十分な原産地では、返還後の展示設備や保存技術に問題がある。文化財の劣化や損失につながるおそれがある。現在の環境において所蔵し続けることこそが国際公益に適う」といった主張がなされることがあります。確かに、今後そうした可能性が全くないとは言い切れないでしょう。しかし一般論としてはそうであったとしても、返還を求められているすべての事例について、こうしたことが当て嵌まるかと言えば、けっしてそのようなことはありません。返還後の原産地における保存環境が、現所有地の保存環境に匹敵するような場合でも、返還を拒んでいることをどのように説明するのでしょうか。
原産地と現所有地の経済格差が大きかった時代ならばいざ知らず、あるいは個別の事例について述べるのならばまだしも、現在における一般論としてこうした主張を繰り返すのは、文化財返還についてある種の負のイメージを印象づけることを目的としていると考えざるを得ません。
(3)〈もの〉の本来の価値は〈場〉〈ひと〉が揃ってこそ発揮される
カメルーンの人たちが、自らの祖先の像を求めてドイツの博物館の収蔵庫を訪れた際の映像を見たことがあります。薄暗いスペースで捜していた小像を見出した人々は、涙を浮かべながら「あなたが戻られるのを故郷でお待ちしています」といった言葉を唱え、踊るように体を揺らしていました。
〈もの〉としての文化財が、その帰還を待ち望んでいた〈ひと〉と出会った場面でした。〈もの〉は、それを作り出した〈ひと〉と〈場〉がそろうことで、はじめて本来の価値が発揮されるのです。
ところが、あるべき〈場〉から持ち出されて遠く異国の収蔵組織に展示・保管されている文化財は、単なる〈もの〉としてのみ扱われています。たとえ〈もの〉と〈もの〉との関係性が示されることがあったとしても、〈もの〉と〈ひと〉と〈場〉の総体的な関係性は失われています。本来の文化財は、それを作り出した人びとと一体となって評価されるべきです。
私たちは、奪われた文化財という〈もの〉を見るとき、〈もの〉の帰還を待っている人たちにまで想いを広げることができているでしょうか。
二項対立図式の陥穽
近代以降に植民地あるいは占領地から持ち出された文化財をめぐり、返還を求められる側(所蔵組織)と返還を求める側(原産地)は、対立する構図で捉えられがちです。言い換えると、返還を求められる側は「文化国際主義(Cultural Internationalism)」を掲げ、求める側は「文化ナショナリズム(Cultural Nationalism)」にこだわっているかのように描かれます。
しかし文化ナショナリズムは、返還を求める側の主張を表現するのに適切とは言い難い用語です。正確には国家を単位とするのではなく、「文化現地主義(Cultural Localism)」と形容すべきです。文化現地主義は、それぞれの現地における所有を原則とし、それを尊重する「文化多元主義(Cultural Pluralism)」、あるいは「文化的アイデンティティ(Cultural Identities)」重視の主張に繋がります。
一方で現在の所蔵組織が掲げる文化国際主義は、一歩間違えれば反省なき「文化帝国主義(Cultural Imperialism)」となりかねない危険性があります。
これまで見てきたように、返還を求められている側の言い分はことごとく破綻しています。それにもかかわらず相変わらず奪った側と奪われた側が「国際主義vs.現地主義」として位置づけられて、あたかも両者の理念が拮抗しているかのような構図が語られています。なぜでしょうか? それは、こうした構図を描くことによって、返還を求められている側が現状を維持できるように延命を図っているからではないでしょうか。しかし実際は、人間としてなすべき当然の事柄を求めている側と、それを頑なに拒んでいる側の対立に過ぎないのです。
普遍主義を標榜する博物館組織は、原産地から返還を求められると「文化財を世界に対して公開するか、それとも現地で独占するか」という極論を用いて二者択一を迫ります。しかし返還を求める側は、けっして公開を拒み、独占しようとしているわけではありません。所有する本来の権利がある原産地で世界に向けて公開しようとしているのです。
冒頭の声明に署名したような「普遍的」な博物館がかつての植民地宗主国に偏在しているのは、なぜでしょうか? ロンドンやパリに普遍的な博物館が存在するのであれば、カイロやナイロビに所在することもあり得るでしょう。
文化財を通じて新たな関係を築く
返還を要求されている博物館側は、収蔵品を返還すると自分たちの社会的な役割が損なわれると危惧しています。現状維持に努めるばかりで、返すべき〈もの〉を返すべき相手に返すことによって、奪った側と奪われた側の固定した対立関係を変革させて新たな関係を構築しようという建設的な展望が一向に示されません。
あくまで返還を拒み、これからもひたすら従来の立場を固守して内側に閉じこもるのか。それとも自らの過去の不正義を認めて、現状を良い方向に変えていこうとするのか。文化財を収蔵する博物館は〈もの〉と〈ひと〉との関係を再構築するような新たな展望を示すべきです。「普遍主義」を標榜するならば、所蔵する〈もの〉だけに身勝手な価値を付与するのではなく、また手放すことで国益や館益が損なわれるといった短絡的な損得勘定に囚われるのでもなく、人類の普遍的な倫理観に則った規範を示すことで、ポスト・コロニアルな時代にふさわしい「普遍的」な価値観を世界の人たちと共有すべきです。このことは、私たちを内なる植民地主義から解放する一歩となるはずです。