〈「スポーツとジェンダーの関係を考える~(前編)スポーツはそもそも男性優位にできている!? その起源を探る」からのつづき〉
「強く健康でたくましい」男性を理想としたスポーツは、現在、女性にも門戸を開いている。しかし、「女性は男性より劣る」という近代スポーツの価値観は根強く、そのことによる不公平はいまだ解消されていない。また、「男と女」を厳密に区別するスポーツのあり方は、急激に性についての価値観を変えてきた社会とのギャップに直面している。スポーツとジェンダーの関係はこれからどこへ向かうのか、前編に続き、岡田桂・立命館大学教授にうかがった。
岡田桂・立命館大学教授
スポーツの魅力と「男女平等」は両立するか
――日本では社会全体におけるジェンダーギャップも大きいですが、スポーツの分野ではどうでしょうか。
前編で述べたように、最近は男女ともに学生時代にスポーツに打ち込む機会は増えていますし、日本の学校教育の場では、中学校体育の「ダンス」は長年女子のみ履修とされてきましたが、1989年に男女共修・選択制に、さらに2008年の学習指導要領改訂で男女ともに必修となるなどの動きもみられます。しかし、日本のスポーツ界は、男女の機会の平等ですらまだ全然達成できていないのが現実です。
そのひとつに、スポーツ推薦の問題があります。特定のスポーツに秀でていると有名校にも推薦で進学できますが、スポーツで男子と同等の環境に恵まれない女子は進学機会やその後の人生の進路という観点からも、大きな不平等に直面することになります。たとえば野球がどれほど上手でも、女子が野球のスポーツ推薦で進学できる中学・高校は非常に少ない。また、いわゆる名門大学にはまだ女子硬式野球部は存在しませんから、大学で野球をしたい女子生徒は、進学先を妥協するか、野球をあきらめるかという選択を迫られます。
こうした不平等の解決に向け、現在、明治大学が2022年に創設した女子硬式野球のサークルを「野球部」に変えようとしています。これは男女平等の取り組みに加え、大学にとっても女子生徒の進学先に選んでもらうメリットがあるということでしょう。プロ野球でも女子チームの創設が始まっており、こうした動きがどこまで広がるか、注目しています。
――スポーツファンの中には、男性に比べて女性選手のプレーは迫力がなくて物足りないという声もあります。ジェンダー平等を進めていくことで、スポーツの魅力が薄れることにはならないでしょうか。
男性のパフォーマンスの方が見ていて面白いというのは、単なる思い込みかもしれません。
2023年、フランスの通信会社が投稿したあるサッカーの動画が話題になりました。その動画で流された、男子代表選手の素晴らしいプレーをとらえたシーンが、実はVFXで加工した女子選手のプレーだったというプレゼンテーションは、「男性の方が女性より優れたパフォーマンスをするはずだ」という無意識のジェンダーバイアスを明らかにし、多くの人が女子スポーツに目を向けるきっかけとなったのです。女子のプロスポーツはなかなか人気が出ず、それがプロ選手の収入や待遇の男女格差の一因にもなっていますが、「女性がやるスポーツは面白くない」という思い込みを外せば、もっと可能性は広がると思います。
もうひとつ、スポーツと男女のパフォーマンスの違いについて考えるとき、パラリンピック競技である車いすラグビーの実践が参考になると思います。車いすラグビーはパラリンピックで数少ない男女混合競技ですが、チーム編成を行うとき、女性も含めた各選手の身体機能の差をフラットに捉え、その違いによって排除されないよう調整していきます。具体的には、身体機能に応じて持ち点が与えられ、チームメンバー4人の持ち点の合計が8点以内に収まるようにするのですが、女子選手は一般的に男性より体力が低いため、女子選手1名につきチームの合計持ち点から0.5点がマイナスされます。その結果、男女が一緒にプレーできるだけではなく、持ち点が高い男性選手を複数起用することが可能になり、戦術の幅も広がるというメリットが生まれます。こうした実例は、男女の身体格差を埋めると同時に、競い合いの面白さを追求するという点で、大きな示唆を与えてくれます。
2024年のパリパラリンピックに出場した車いすラグビー日本代表チーム
政治の保守化がスポーツに与える影響
――男女間のジェンダー格差改善については、さまざまな可能性がありそうですね。もうひとつ、スポーツとジェンダーという観点では、近年、特に個人競技において、「多様な性」に関する問題が政治的にクローズアップされています。たとえば、第二次トランプ政権は「性別は生物学的な男性と女性のふたつしかない」とし、トランスジェンダー女性が女子競技に参加することを禁止する大統領令に署名しました。こうした動きはなぜ起こっているのでしょうか。
アメリカでスポーツが政治的な争点となる背景には、1980年代以降にアメリカで盛んになった、保守派とリベラル派の文化的な諍いが関係しています。「文化戦争」と呼ばれる一連の対立の結果、リベラル派が求める中絶の権利や同性婚が合法化されていくなかで、「男女の区分け」は保守派にとっていわば最後の砦となりました。現代社会では生活や労働の中であまり男女の身体差を問われないようになってきており、保守派が男女の区分けを主張できる場は、もはや風呂、更衣室、トイレといった極めてクローズドな空間のほかは、スポーツぐらいしか残っていません。当然の成り行きで、スポーツにおける性の問題が集中的に議論されるようになり、トランスジェンダーや性別の可視化という論題に焦点が絞り込まれていきました。
トランプ政権の支持者の多くは「性は男と女だけ」という「伝統的」な価値観を好みます。そんな彼らが口にするのは、「スポーツでは、男女で競えば男性が勝つのだから、やはり男性が優れている」「スポーツでは男性と女性のカテゴリーが分かれているのだから、社会でもその枠組みを維持すべきだ」「トランスジェンダー女性が女性として競技するのは公平ではない」などの主張です。スポーツは、彼らの価値基準の根拠として格好の題材となっているのです。
――しかし、IOCが性自認や性の多様性を認めて取り組みを進めているように、スポーツ界も変化してきているのではないでしょうか。
1990~2000年代以降、同性愛者を差別してはいけないという意識が社会で強まり、トランスジェンダーや、男性・女性の性別にあてはめられないノンバイナリーの存在も可視化され、多様な性は世界各国で法的にも認められるようになっていきました。スポーツもこうした社会の動きとは無縁ではなく、より性の多様性が尊重されるようになってきてはいます。とはいえ、「強く健康でたくましい男性」を理想とし、男女の性別二元論をベースとするスポーツの近代的身体観は根強く残っており、急激に変化する社会の性の価値観との間でギャップが広がっているのが現状です。
そのことを示すひとつの例として、この数十年、スポーツが女性に門戸を開く一方、率先して「男女の違い」とされるものを探し続けてきたことが挙げられます。まず、まだ多様な性が広く認識されていなかった1960年代は、女子選手の裸体を医師が視認し、外見的な第二次性徴と外性器を確認するという方法で性別確認が行われていました。その後、性染色体や遺伝子検査へと移行したものの、それらは男女を区別する科学的方法として不充分だとわかり、骨格や筋肉を発達させる働きをするテストステロンというホルモンが一定の数値以下であるかどうか、測定することになりました。これにより、たとえばトランスジェンダー女性が女子競技に参加しようとしたとき、テストステロン値が基準より高いと参加資格を認められないということになりました。