2013年の『風立ちぬ』以来10年ぶりの長編作品となる宮﨑駿監督の82歳の新作『君たちはどう生きるか』を公開初日の朝に観た。咀嚼するのに時間がかかった。今もまだ十分に咀嚼できたとは言えない。うまく呑み込めてもいない。
この文章を書いている時点(7月29日)で、ネットや新聞にはすでに膨大なレビュー、解説、考察があふれている。私はそれらをまだ読めていない。心の準備ができていない。独自の解釈を示すのではなく、自分にとって宮﨑駿作品の意味は何なのかを愚直に問い直すこと。今の私に必要なのはそういうことだろう。素朴にそう感じた。『君たちはどう生きるか』を観ることは、この自分自身の欲望や人生の根源をある面から問い直されるような経験だった。少なくとも私にとってはそういう経験だった。そんな心の初動を大切に育てていきたいと感じた。
もちろんそれは世の中の謎解き合戦や解釈ゲームには乗らない、という意味ではない。本当に「降りる」つもりならば、何も書かず、沈黙を守ればいいだけである。そうではなく、私自身と映画のあいだの極私的な無意識の通路(夢?臍の緒?)をくぐりぬけていかなければ、この私がこの『君たちはどう生きるか』という映画に向き合って批評することの意味が消えてなくなってしまう。そう感じたのだった。
すでに前置きが長くなった。とにかくまず、初見の印象を何とか言葉にするところからはじめたい。
君たちがどう生きるかは知らない。ただこの自分はこう生きた。これからもこのように生きる。自分には創作者としての後継者はいないし、継承する誰かを必要としていない。自己出産。自分で自分を産み直すこと――映画を観ながら、そんな言葉がしきりに思い浮かんだりもした。つまり『君たちはどう生きるか』はじつは「君たちはどう生きるか」などということは少しも考えていない。題名と内容のその矛盾を説明するつもりすらないのだ。
すなわち、宮﨑駿という存在を産み直せるのは宮﨑駿だけである(正確には、後述するように、宮﨑駿が虚構によって亡母を甦らせ、その母親が宮﨑駿を新たに産み直す、そしてまた……という無限の循環がそこにはあるだけである)。そうしたエゴイズム的な輪廻転生の究極を感じた。ただし、産まれてきたのは異形の(『古事記』の)ヒルコ的な赤子であり、水子だった。
これは遺言的な作品ではない。むしろ新たな「はじまり」の産声を告げる作品である。過去の宮﨑作品の自己引用的な迷宮のアラベスクなのに、なぜこんなにグロテスクな未知の建築物が打ち建てられるのだろうか。たとえば小説家の大江健三郎は、友人のエドワード・サイードの「晩年様式」という概念を継承しつつ、老人の知恵ではなく愚行として晩年の小説群を書きぬくことを試みた。宮﨑駿の晩年様式的作品もまた、老成/成熟/若々しさなどの時間軸の蝶番が外れてしまっている。そこでは老人の脳裏に宿る走馬灯的映像が、いわば『ドグラ・マグラ』(夢野久作)のようにねじれて、そのまま胎児や水子の生前の夢に裏返っていくかのようである。
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第二次世界大戦/十五年戦争の下の日本。主人公の少年・眞人(まひと)は、病院の火事で母親のヒサコを失う。その後眞人の父親であるショウイチは、死んだヒサコの妹ナツコと再婚する。眞人の義母となったナツコは亡母ヒサコとそっくりである。再婚にあたって眞人とショウイチは母方の実家のお屋敷へと引っ越す。父親はその地で軍事関連の工場を経営することになる。
到着して間もなく、眞人は不思議なアオサギにつきまとわれる。お屋敷には奇妙な老婆たちがいる。お屋敷の裏には、かつて本を読みすぎて正気を失い、その後忽然と姿を消した「大伯父」が建てた奇妙な「塔」がある。アオサギは人間の言葉を喋り、眞人に対して、母君はあなたの助けを待っている、と怪しく誘いかける。やがて眞人は姿を消した義母・ナツコの姿を追って、「下の世界」へと降りていく……。
ここまでが前半パートである。そして後半の物語は、眞人自身の無意識の夢のような、死者たちが彷徨う黄泉の国のような、狂気を孕んだ象徴と幻想の森のような、宮﨑駿の過去作品の自己引用的な二次創作のような、不思議な世界での眞人の旅を延々と描いていく。
作品全体の細かい解釈や考察、分析は今の私にはできない。ただ私は、初見時に、大づかみで、次のような印象を受けた。それがごく普通の凡庸な解釈なのか、触発された私の無意識の特異な幻燈なのかも自分ではわからない。まずはその印象をありのままに言語化してみよう。
この映画の中心にあるのは輪廻転生である。母と息子の黄泉がえりであり、生まれ直しである。それは心理学や神話学の知見で読み解ける一般的な欲望なのかもしれない。しかしそこにはやはり、宮﨑駿という人間だけに固有の、クィアで特異的な欲望のねじれが生々しく示されていたように思えた。
(註1)
クィア理論の極端な立場では、出産や未来世代に特別な価値を認める再生産未来主義が否定され、欲望のアンチソーシャルな否定性の要素が重視される。
(註2)
ただし、『君たちはどう生きるか』の母的なものの存在は複数的な母へと分裂している。死んだ実母のヒサコ。その妹で義母のナツコ(代理的で分身的な母)。少女の頃のヒサコであるヒミ(少女的な母)。のみならず、『天空の城ラピュタ』のドーラのモデルは宮﨑駿の実際の母親であるという有名な話に従うならば、アオサギの中にすら母的なものの影が混在しているのかもしれない。つまりアオサギは『天空の城ラピュタ』のドーラや『千と千尋の神隠し』の湯婆婆的な「恐るべき導き手」であり、「怪物的な老婆たち」の系譜にも重なるのではないか(豪胆で武骨だが親切なキリコの存在はどうだろう?)。実母のヒサコ、義母のナツコ、少女のヒミという三人の「美しい母=少女」たちの裏面には、アオサギのいびつな醜さが象徴するような「怪物的な母」もまた存在するはずである。
(註3)
日本神話の扱いといい、『君たちはどう生きるか』はどこか新海誠からの逆影響を感じさせる。極端に言えば、新海誠が宮﨑アニメを二次創作したクローン的な作品が『星を追う子ども』(2011年)であるとすれば、その『星を追う子ども』を宮﨑自身がさらにリメイクしたものが『君たちはどう生きるか』である、というような「仮説」を立てることも不可能ではないかもしれない。