すなわち宮﨑駿は、アニメーションという近代的な技術の魔法によって、死んだ母親を繰り返し甦らせ、復活させようとする。そして甦った母親は、いつも何度でも、息子である宮﨑駿のことを産み直す。この映画の迷宮的な印象は、そうした螺旋状の輪廻転生を暗示するものである。私はそのように受け止めたのである。
たとえば私は映画を二度目に観た時、冒頭近くの、妊娠した義母のナツコが眞人の手をとって自分のお腹を触らせるというシーンに、禁忌的なエロティシズムと同時に、不気味な戦慄を覚えた。あのお腹の中にいたのは、じつは、眞人自身なのではないか。もちろん現実的にはそれはありえない。映画の最後に一瞬、ナツコが産んだ子の姿も映されていた。しかしもしかしたら……と感じさせるような不気味な手触りがあったのである。
眞人の産みの母であるヒサコは、少女時代に一年ほどの間、神隠しにあったという。その間、「下の世界」でおそらくヒミという火を操る力をもつ少女になっていた。物語の終盤に、眞人はヒミと出会い、しばらく行動を共にする。つまり眞人は、自己を産む前の母親、自己を妊娠する前の母親とすでに邂逅していた。そしてヒミ=ヒサコは、まだ孕んでもいない未来の未生の息子を産むことを「お前を産むなんてすてき」「いい子」と肯定する――炎の中で自分が死んでいくという未来の運命をも受け入れた上で。ここには不可思議な時間軸のねじれがある。何といえば言いのか、いわば、父母未生以前の誕生肯定のようなものが。
作中の眞人には、実母/義母に対する何らかの性的欲望があるようには感じられない。息子/母/父の間に欲望の三角形が形成されていない。帰宅した父親と義母のキスを階段上から覗き見るシーンにおいてすら。宮﨑駿にとっては、おそらく、「母からこの世界に産んでもらう」という出来事=事件それ自体が究極の享楽であり、そこには恋愛や性愛の要素は特に必要がないのではないか。すなわち優先されるべきなのは、母によってこの世界にいつも何度でも産んでもらいたい、というクィアで特異的な欲望なのである。
「母親に懐胎してもらって産んでもらう」という出来事=事件こそが絶対的かつ反復可能なはじまり――それはサイードの区別でいう神話的なoriginであるようにも世俗的なbeginningであるようにも見える――であり、それはべつに単性生殖でも処女懐胎でも何でも構わない。必ずしもそこにセックスは必要ない(宮﨑作品の中では性愛の具体的過程が描かれることはない、『風立ちぬ』ですら)。そうやって母親は何度も死に、何度も甦り、何度もこの私を産む。いつも何度でも。(文字数の都合で詳細は書けないが、キリコや老婆たちの人形のくだりで、あの世界は何度も循環しループしているのだろう、という確信を私はもった)
ただし『君たちはどう生きるか』において描かれる意味での出産主義は、子どもの再生産によって既存の社会と未来を維持することには特別な価値がある、というものでもない(註1)。そこにはむしろ、この世界はどうなってもいい、べつに滅びてもいい、それでも母親から産まれたい、という破壊的なラディカルさを感じる。何というか、世界の終わりとはじまりがねじれて重なってしまうような異形の欲望である。
出産や誕生の価値を否定し、人間はそもそも産まれてこなかったほうがよかったという(論理的には成立し得ない)否定的欲望を打ち出す立場を反出生主義(antinatalism)と呼ぶが、それに対して、母胎に孕まれ産まれる以前の(存在/不在が分岐する手前の)未生の「非在」としての主体性を全面的に肯定し祝福するような――その主体が将来どんな子どもに育とうが、いい子になろうが悪人になろうが、あるいは仮に産まれてくることができずに水子になってしまった場合ですら――母なる欲望があるのかもしれない。そこに想定されうるのは、すなわち、未生の非在者のための出産肯定主義――antinatalismではなくいわばnon-natalism(非の出産主義)とでも呼ばれるものだろうか?――のような特異的な欲望なのである。
眞人は「下の世界」での母探し(神隠しにあった義母のナツコを探すこと/亡き実母のヒサコと再会すること)の冒険の果てに、塔の主である大伯父と対峙する。ここでも私は、単純に、最初に映画を観た時の自分の印象に従おう――私の印象は標準的な解釈の一つにすぎないとは思われるが。すなわち、主人公の眞人は少年の頃の宮﨑駿であり、終盤に眞人が対面する大伯父は年老いて力尽きる寸前の宮﨑駿である。つまり宮﨑駿が宮﨑駿自身に会いに行く。ここでもまた、『君たちはどう生きるか』は円環的な物語である。
大伯父は、この地下の世界を創造しバランスを保つための仕事を、眞人に継承してもらいたいと考えている。大伯父の仕事とは、虚構の世界を構築して維持するというアニメーション制作の仕事の暗喩であり、塔はスタジオジブリである、というのも標準的な解釈にすぎないだろう。しかし眞人は大伯父の願いを断る。自分は現実に還って、友人たちと共に生きます、とはっきり宣言する。自分は虚構作りの仕事――石製の積み木を積み上げて虚構の世界のバランスを保ち維持すること――なんて継承しません、と。そして世界は崩壊する。塔は崩れ落ちる。これも素朴に言えば、独自の達成を築き上げてきた戦後日本アニメの終焉(世界の終わり)を暗喩するものだろう。
しかし、作品を観終えて映画館を出てみても、あの大伯父とはやはり、戦後日本社会を生き延びて疲弊して年老いた眞人自身なのだ、という印象が消えない。つまり、大伯父からの仕事(積み木=虚構制作)の継承の依頼を断って、虚構の塔の中ではなく悪意に満ちた現実で友たちと共に生きる、という決断をしたからこそ、眞人は戦後社会の中で様々な矛盾を経験し、やがては大伯父の宿命を反復してしまうのだろう、と。そこにはやはり、自己出産的な輪廻と反復の業の深さが感じられる。
少年の頃の自分に戻って、虚構作り(アニメ作り)を継承せずに、別の仕事で生きていたとしたら。宮﨑駿の人生はどんなものになっただろうか。しかし、作中の眞人がたとえ自己意識の上ではそれを拒絶したとしても、宮﨑駿の人生にとって、母と息子の無限の産み直しの循環は決して終わらないのだろう。自己と母の関係を含めて、おそらく、宮﨑駿自身が宮﨑駿を自己出産し、無限に産み直すのだろう――なぜなら、母とはこの私である、のだから。
(註1)
クィア理論の極端な立場では、出産や未来世代に特別な価値を認める再生産未来主義が否定され、欲望のアンチソーシャルな否定性の要素が重視される。
(註2)
ただし、『君たちはどう生きるか』の母的なものの存在は複数的な母へと分裂している。死んだ実母のヒサコ。その妹で義母のナツコ(代理的で分身的な母)。少女の頃のヒサコであるヒミ(少女的な母)。のみならず、『天空の城ラピュタ』のドーラのモデルは宮﨑駿の実際の母親であるという有名な話に従うならば、アオサギの中にすら母的なものの影が混在しているのかもしれない。つまりアオサギは『天空の城ラピュタ』のドーラや『千と千尋の神隠し』の湯婆婆的な「恐るべき導き手」であり、「怪物的な老婆たち」の系譜にも重なるのではないか(豪胆で武骨だが親切なキリコの存在はどうだろう?)。実母のヒサコ、義母のナツコ、少女のヒミという三人の「美しい母=少女」たちの裏面には、アオサギのいびつな醜さが象徴するような「怪物的な母」もまた存在するはずである。
(註3)
日本神話の扱いといい、『君たちはどう生きるか』はどこか新海誠からの逆影響を感じさせる。極端に言えば、新海誠が宮﨑アニメを二次創作したクローン的な作品が『星を追う子ども』(2011年)であるとすれば、その『星を追う子ども』を宮﨑自身がさらにリメイクしたものが『君たちはどう生きるか』である、というような「仮説」を立てることも不可能ではないかもしれない。