今年の4月に公開された『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年、チャン・フン監督)、続いて9月に公開された『1987、ある闘いの真実』(同年、チャン・ジュナン監督)と、1980年代の民主化運動を描いた韓国映画が共に予想外のロングランを記録した。いわゆる単館系でのヒットではあるが、これまでにない現象なのは確かだ。隣国の民主化運動の歴史に、なぜ注目が集まるのか。民主化をテーマとした韓国映画を紹介しながら、考えてみたい。
今では想像もつかないが、ほんの30年前まで韓国では軍事独裁政権が長く続いていた。その間、抵抗運動は一貫して存在していたが、今日の韓国の民主主義の起点となった1987年に向けてカウントダウンが本格的に始まったのは、80年代に入ってからだ。その「原点」にあるのが、『タクシー運転手』が描いた、80年5月の「光州事件」である。
光州事件とはどのような出来事だったのか。背景には、その前年10月に軍人出身の独裁者・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が側近に暗殺された後、今度は全斗煥(チョン・ドゥファン)中将が政権を掌握しようとしていたという経緯がある。全斗煥は全国に戒厳令を敷いたのだが、これに対する抵抗運動が根強かったのが、南西部の都市・光州市だった。同市の抵抗運動を封じ込めるために、陸軍最強をうたわれる空挺部隊が投入される。戒厳軍と呼ばれる彼らは、抗議する一般市民にめちゃくちゃな暴力を行使し、ついには無差別発砲を繰り返すに至る。市民はこれに怒り、抗議し、ついには自ら銃を取って戦うが、10日ほどで鎮圧されてしまう。当時、軍部に制圧されたマスメディアは、こうした実情を報道せず、むしろ「共産主義者に煽動された市民が暴徒化している」と、事実をゆがめて伝えた。韓国政府が20年後に発表したところでは、民間人の死者数は168人、行方不明者は406人。軍と警察の死者数は27人だった。
『タクシー運転手』――原点へのタイムトラベル
『タクシー運転手』は、光州に潜入してその悲惨な状況を世界に伝えた実在のドイツ人ジャーナリスト、ユルゲン・ヒンツペーターのエピソードを基に、彼を光州まで運んだ無名のタクシー運転手を主人公とした劇映画だ。名優ソン・ガンホ演じる運転手は、光州で起きていることを全く知らないまま現場に足を踏み入れ、軍の弾圧と市民の抵抗を目の当たりにする。
この映画の巧みさは、何も知らなかったタクシー運転手と共に21世紀の観客が1980年5月の光州に迷い込み、そこで軍の暴力を目撃するという構造にある。この構造に導かれて、観客はいわばタイムトラベルを経験する。
そうした効果を出すため、主人公たちが光州に入ってすぐに直面する軍隊の暴力や、それと対峙する人々の高揚感と連帯感に満ちた広場の雰囲気などを、臨場感あふれるドキュメントタッチで描き出している。ジャーナリストが回すカメラを通した(という設定の)映像が差し挟まれることで、効果はさらに高まる。この場面で衝撃を受けるからこそ、光州の人々が外からやってきた主人公たちを温かく迎える展開が、胸に沁みるのである。
ただし、この作品は全体としては完全な劇映画だ。最後には光州のタクシー運転手たちがいかにも映画的な大活躍をする。もちろんフィクションだが、タクシーやバスの運転手たちが軍との闘いで先頭に立ったことは史実である。
この作品を通じて私たちが「目撃」するのは、人々を暴力で従わせようとする軍人や独裁権力の恐ろしさであり、それに対して人間らしい温かい心を持ったごく普通の人々が抵抗するさまである。タイムトラベラーは、韓国の民主主義の「原点」を確かめることになる。
『光州5・18』――引き裂かれた大韓民国
光州事件を、外部から訪れた人の視点から描いたのが『タクシー運転手』であるのに対して、光州の人々の群像劇として、あのとき起きたことの顛末を正面から描いたのが、映画『光州5・18』(07年、キム・ジフン監督)だ。「5・18」とは、戒厳軍が初めて市民に無差別の暴力を加えた5月18日を指している。原題は『華麗なる休暇』で、これは戒厳軍による光州制圧行動の作戦名から来ている。作品はこの18日から、圧倒的な兵力で抵抗が鎮圧された5月27日までの10日間を描いている。作品としてのタッチは、かなり大衆的というか、“ベタ”であるが、事件の流れはおおよそ分かる。
この作品も『タクシー運転手』同様、戒厳軍と戦ったのがごく普通の人々であったということを強調しているが、この映画のもう一つのテーマは、“独裁は「大韓民国」の理念を引き裂いた”ということだろう。それが強く押し出されているのが、戒厳軍が初めて群衆に一斉射撃を行う場面である。
全羅南道の道庁前に集結する軍部隊を前に、国旗を手に抗議する群衆。横丁のおじさん、おばさん、兄ちゃん、姉ちゃんといった風情の人々だ。そのとき、街の広報スピーカーから国歌が流れ出す。すると人々は胸に手を当てて、恭しく、誇らしげに国歌を歌い始める。この国をつくり、支えているのは俺たちだという自負。だが次の瞬間、軍の一斉射撃が始まる。国歌が流れる中、彼らはちりぢりに逃げ惑い、次々と銃弾に倒れていく。軍部にとって、彼らは「国民」ではなく、鎮圧の対象にすぎなかったのである。
この光景を目の当たりにして、かつての古巣と戦う決意をした、アン・ソンギ演じる退役軍人がこう叫ぶ。「軍人の名を汚した奴らは、もはや大韓民国の軍人ではない。彼らこそが暴徒であり、反乱軍だ」。戒厳軍の側にも、鎮圧命令に苦悩する良心的な将校が登場する。独裁が、国民の結びつきを引き裂いたことを示す場面である。
大韓民国の「民国」とは「共和国」という意味であり、その憲法の第1条第1項は「大韓民国は民主共和国である」と定めている。軍の独裁と弾圧は、その「民主共和国」の精神を踏みにじったというのが、この映画のメッセージなのだろう。
市民軍は圧倒的な兵力の前になすすべもなく鎮圧される。「俺たちは暴徒じゃない」「私たちを忘れないでください」という台詞が印象的だ。