真幸 両方とも西洋から来たものの日本への導入とも言えると思うんです。ただ、さらに細かく見ると「修養」は英米系の本の影響が強い。スマイルズもそうですし、さきほど出たカーネギーなんかもそうでしょう。「教養」は、ドイツ哲学とか、フランス文学とかの影響が強い。つまりヨーロッパの学問や思想に影響を受けています。やっぱり「教養」に関してはとりわけ西洋の体系みたいなものを参照し、知っているかどうかが大事なんだと思う。「教養」を重んじる人は、自分たちは知の高いレベルの学問をしていて、「修養」のような庶民が学ぶものとは違うんだと思っているかもしれないけど、単に西洋の本について多少の知識を持っているということだけであって、真に主体として持っている思想の内実を見ると大差ない(笑)。
太平洋戦争が与えた影響
真幸 絢子さんの本では、日清・日露戦争が「修養」の始まりとして重要視されていますよね。読んでいて感じたのは、そのあと日本ではもっと大きな戦争が、太平洋戦争があったわけじゃないですか。これが「修養」にどのような影響を与えたのかなと思ったんです。
「教養」で言うと、竹内洋さんは、戦前と戦後の連続性を強調されていて、「大正教養主義」のようなものは1960年代ぐらいまで残っていて、80年代で完全に没落したという考えなんです。僕は竹内さんと意見が違っていて、本当は「教養」は太平洋戦争によって大きな傷を負ったんじゃないか、と考えています。戦後復興のスピードが早かったので、「教養」の中身を省みることなく進んだことが、その後の「教養」の没落を生んだと思うんです。
それに比べると、「修養」のほうは、戦前の倫理観を戦後の復興にそのままスライドさせただけでうまく生かせたのではないかと思うんです。
絢子 「修養」は太平洋戦争期に巧みに利用されたという印象です。「国家動員体制」のなかで、勤勉に働くことが〝お国〟のためになる。一粒のお米を節約することが、国の勝利につながるんだと。ひとりひとりの努力が、国家という大きなものにつながる。「修養」は本来、個人の主体的な営みではありますが、指導されてみんなで行うという集団的な性格もあり、それが発揮された時期でもあるんですね。
兵士となって戦う男性だけでなく、女性を戦時体制に組み入れるための「修養」という側面もありました。大日本雄弁会講談社(講談社)が出していて人気を博した雑誌『少女倶楽部』の昭和14年(1939年)の付録『私の修養日記』などを見ると、家のなかでお母さんのお手伝いをする、物を大切にする、近所の神社を掃除することなども「修養」で、それを実行することがひいては日本のためになるんだと説かれています。私的な行為が公的なものに接続されたのです。
戦後の占領期、様々な社会教育団体がGHQによって解体されるなか、明治39年(1906年)に創設され、「流汗鍛錬 同胞相愛」を掲げて活動していた「修養団」と、二宮尊徳の思想を軸とする「報徳会」はそれを免れたことも注目できます。どちらも勤勉努力を説く教化団体です。戦後の復興期にも「修養」の精神は生かされ、日本の高度経済成長期でさらに力を発揮した経緯があるので、「修養」は「教養」とは違う道を辿ったという印象です。
真幸 戦後の「教養」と大衆とのつながりで触れておきたいのが、吉本隆明です。彼は敗戦時に20歳ですね。戦後、いわゆる「教養」を否定した〝教養の人〟だと思うんです。彼の「転向論」(1958年)というのが、「教養」や大衆の知の在り方みたいなものを考えるうえで重要だと思う。
彼の転向の解釈はほかの人が考える転向と違うんです。一般的に転向というのは、共産主義者が警察に捕まり拷問とかされて耐えきれずに、共産主義を放棄する現象のことを指しますね。だからそれを拒んで〝非転向〟を貫いた人は偉いとも言われる。でも、吉本の解釈は違う。転向の最大の原因は、大衆からの孤立感にある、というのです。捕まったマルクス主義者、いわば「教養」を持つインテリたちですが、警察の尋問なんかを受けている間に気づくんです。マルクス主義の旗を振って、大衆を啓蒙するようなことを言っていたけど、それは外国から入ってきた知識をただ振りかざしているだけで、日本の現状や大衆の動向からはまったく遊離していて、大衆たちはそれなりに充足していた、ということにです。そこで彼らは異様な孤独感にさいなまれて、転向する。すると、吉本はこういう〝転向〟はまだマシだと。〝非転向〟を貫いた人も同じ穴の狢(むじな)というか、むしろ、もっと悪い。なぜなら、〝非転向〟の人らは、日本の現状を一貫して無視し、自分の大衆からの孤立を直視しようとすらしなかった、ということになるからです。最後まで大衆を無視して、日本の現状に鈍感だったからだという解釈なんです。
吉本には有名な「大衆の原像」という概念があって、それは大衆の側にどこまでも寄り添うということなんですね。正直、吉本の書くものは難しいので、とても大衆が読めるものではないと思うけど(笑)。つまり、「大衆の原像」は、吉本が抱いた大衆についての「幻想」だという批判は、当時からありました。それはそうなのですが、吉本が、この概念を使ってやろうとしたことには、必然性もあり、やはり一定の説得力を持ったのです。「大衆の原像」ということで吉本が追い求めたものは、日本人にとっての思想の内発性だったのです。ヨーロッパの思想家の本を読んで知識を振り回すだけではダメで、地に足がついた大衆の感覚に根をもった思想を立ち上げなければいけない、ということなんだよね。
絢子 「教養」の場合、大衆から孤立するという面は確かにありますね。大衆に寄り添いたいのだけれど、知を習得し、それを使いこなすようになればなるほど大衆はついてこられなくなる。結果、大衆を啓蒙するという立場に立たざるを得なくなり、そこに「知識人」と「大衆」という区別が生まれ、両者のコミュニケーションがうまく取れなくなってしまうんですね。
「修養」は個人的な志向ですが、「みんなで一緒にがんばりましょう!」とか「この社会をよくするために努力しましょう!」とか、徐々に集団的なものにもなっていきました。それが極まったのが戦時下で、軍国主義や錬成といったイメージがつき、戦後は「修養」という言葉があまり使われなくなったんですよね。
真幸 なんとなく古臭い言葉に聞こえますもんね。
絢子 ええ、でも「修養」は、会社の研修――「研究」と「修養」の省略形ですね――とか、「自己啓発本」や「オンラインサロン」などに姿を変えて、現在までその系譜は続いています。それらのなかには、本来は「修養」だったけれど「教養」と呼ばれているものもあると思います。
真幸 「教養」のほうも戦後やっぱり繁栄するんだよね。たとえば、戦後、丸山眞男が大活躍するでしょう。丸山は日本の「教養主義」のリーダーみたいな人ですよね。多くの人は、吉本と違って、戦争に負けたときに日本は「教養」が足りなかったからダメだったんだと考えたんですよ。もっとリベラルな思想を日本に根付かさねばという気持ちになった。その丸山を吉本は批判した。つまり、「転向論」で指摘したことですよね。丸山は大衆を無視して、ヨーロッパのかっこいい思想を使って、ただ日本を糾弾しているだけだみたいなことを吉本は感じたんです。その吉本の批判にも一理あって、「教養」が大衆のほうに向いていなかったことが、後の「教養」の大没落の始まりだったんだと思います。
筒井清忠
つつい・きよただ 1948年大分県生まれ。社会学者。著書に『日本型「教養」の運命―歴史社会学的考察』などがある。
竹内洋
たけうち・よう 1942年東京生まれ。社会学者。著書に『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』などがある。
ピエール・ブルデュー
フランスの社会学者(1930年~2002年)。著書に『ディスタンクシオン――社会的判断力批判』などがある。