僕は、勉強を始める前に、勉強すべきことがたくさんありすぎて困惑したり、落ち込んだり、という経験はないのですよ。それに、勉強すれば、勉強しなくてはならないことが少しずつ減っていくわけではなくて逆に、勉強すればするほど勉強すべきことはもっとたくさんあることがわかるし、本を読めば読むほど、読まなければいけない本はより増えていくものです。そして、勉強すべきことが勉強するほど増えていくことで、落ち込むかというとまったく逆で、それが愉快で楽しくてしかたがなかった。この歳になってもそうです。
でも、どうも、これは、現在の若者、現在の大学生の感覚とはずんぶん違うらしい。たとえば、いまの若者は大学生ですら奨学金を稼ぐためにバイトに必死で、時間を節約しなきゃいけない。とにかく時間が足りないんですよね。本当は学生時代は一番時間があるときなんですけどね。
絢子 それに似た話で、こんまりさんの片づけ法があります。彼女も、どうしようもなくモノがあふれてどうしていいかわからないとき、何を捨てればいいのかを考えるのではなく、自分が手に取った際に「ときめく」モノを残しなさいと言う。何を残すか、何が好きかは自分が選び取り、判断する。これは一見、当たり前のことですが、「あなたの心が動かされることから始めましょう」と、誰かに言ってもらいたいのかもしれません。
真幸 そうか千葉さんの勉強法は〝こんまり式〟でもあったのか(笑)。
絢子 私は開架式の図書館の中を歩き回るのが好きで、自分がふだん接する分野とはあまり関わりのない分野の棚で気になる本や、考えていることのヒントに出会うことも少なくありません。とは言え、自分であちこち歩きながらときめく何かを見つけるといったようなことは、時間がないとできないことでもありますね。
それでも、「教養」や「修養」は、新しい世界と出会わせてくれるものであり、人生で何かあったときには自分の助けや判断材料にもなると思いたいです。「自助努力」を強調し過ぎる社会を批判することは必要ですが、結局人は自分の人生を自分で生きていかなければなりません。努力は報われないかもしれない。そんな知識が何の役に立つの? と言われるかもしれない。けれど、〝知〟は自分が生きるうえで助けになるかもしれない。そうしたささやかな期待を込めながら学び、身につけていくしかないのではないでしょうか。
真幸 本のなかに線が引いてあって、誰かに面白いポイントを教えてもらうというのはやっぱり違うと思う。本は、ほかの人が気づかなかったところを読み解けたとき面白いじゃないですか。読書は、書いた作者ですら気づいてないところを読めたときがスリリングなんです。
「教養」の対象となる重要な古典は長い時間、繰り返し読み返される。たとえば、マルクスが何を書いていたのか、マルクスが意図しているものを越えて色んな人が読むことができるから『資本論』は古典なんですよね。書かれた本から一方的に教わるというより、自分と本がコミュニケーションしながら発見するのが、人文的な〝知〟を学ぶ醍醐味なんですよね。
見田宗介
みた・むねすけ 社会学者(1937年~2022年)。東京生まれ。著書に『現代社会の理論』、『時間の比較社会学』(真木悠介名義)などがある。
ひろゆき
本名:西村博之(にしむら・ひろゆき)実業家。1976年、神奈川県生まれ。インターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」を開設。
こんまり
本名:近藤麻理恵(こんどう・まりえ)片づけコンサルタント。1984年、東京生まれ。