加えて、大学キャンパスでも、教養主義の没落が目立っていた。大学進学率は4分の1に迫ろうとしており、エリートというほどの存在ではなくなった。無味乾燥なマスプロ講義、学生数増大に対応しきれない大学設備、卒業後の進路の平凡化への苛立ちは、大学に対する学生たちの幻滅を生み、戦後体制への疑念と大学紛争につながった。大学生という高学歴層のあいだでも、教養や知への憧憬はかつてに比べれば低下していた。
司馬作品の文庫化と「昭和50年代」の歴史ブーム
じつは司馬作品が多くの読者を持続的に獲得するようになったのは、そのような時期だった。司馬の歴史小説と高度成長期の結びつきはしばしば指摘されるが、むしろ、その後の時代に司馬作品は親和的だった。
たしかに、司馬の代表作の多くは、1960年代に書かれている。『竜馬がゆく』が文藝春秋社から刊行されたのは1963年、『坂の上の雲』の新聞連載が始まったのは「明治百年」の1968年である。だが、恒常的に多くの読者を獲得するのは、新聞連載でもなければ単行本でもない。大手出版社の文庫に収められることが、そこでは決定的に重要だった。1日で読み捨てられる新聞や、時期が来れば返品される単行本とは異なり、文庫は書店の特定コーナーに常備される。読者は書店に足を運びさえすれば、いつでも棚の目立つところで司馬作品を見つけることができる。しかも、軽量安価な文庫本は、通勤時の持ち運びにも便利である。そして、司馬作品が多く文庫化されたのが、1970年代後半から80年代前半、つまり「昭和50年代」だった。
折しも、当時は「歴史ブーム」の時代だった。歴史学の専門研究者ではなく、一般読者向けの歴史雑誌が盛り上がりを見せたのも、この時期である。新人物往来社の『歴史読本』は部数を伸ばし、複数の姉妹誌が創刊された。時を同じくして『歴史と旅』(秋田書店)や『歴史と人物』(中央公論社)が創刊された。米国ビジネス動向の紹介に重きを置いていた『プレジデント』(プレジデント社)が、歴史人物路線に転じたのも、1978年末のことだった。これらの雑誌はいずれも、歴史作家や歴史学者の論説を多く掲載していた。
「教養主義の没落」と中年教養文化の隆盛
とはいえ、大学キャンパスや勤労青年たちのあいだで教養主義が衰退していたのは、前述のとおりである。にもかかわらず、なぜ、「歴史という教養」への関心が高まったのか。そこには、中年文化の存在があった。
ビジネス誌である『プレジデント』はもちろんのこと、『歴史読本』や『歴史と旅』といった大衆歴史雑誌も、主たる読者層は、サラリーマンをはじめとする中年層だった。司馬遼太郎の歴史小説は、若い読者も少なくはなかったものの、一般の文学作品に比べれば、サラリーマン層の読者が多かったことは、前述の諸井薫の回想のとおりである。若者層のあいだでは教養主義は明らかに退潮傾向にあったが、中年層のあいだでは、むしろそれに親和的な読書文化が見られたのである。
奇しくも、当時の中年層は、かつて教養主義の高潮期に青春期を過ごした世代だった。中年期は、仕事や家庭生活で一定の見通しや割り切りが生まれ、若い頃よりは落ち着きを得やすい年代である。かつて関心を抱いた「教養」を懐かしく思い返し、再び書物を手にしようと考えることもあっただろう。そうしたなかで見出されたのが、司馬作品や大衆歴史雑誌等ににじむ「歴史という教養」だった。
それにしても、なぜ「歴史」だったのか。そこには、参入障壁の低さがあった。抽象的な思想・哲学・文学に触れようとすれば、表現や論理を丁寧に追いかけることが避けられず、必然的に精神的な忍耐力を要する。それに比べれば、歴史上の人物の軌跡を跡付けたり、その史的背景に触れることは、まだしも心理的な負担が小さかった。
もちろん、実際の実証史学は専門的なトレーニングを経ていなければ、決して入っていきやすいものではない。古文書を探し出し、それを読み解き、緻密な史料批判を重ねたうえで、史実を導き出す。こうした根気を要する作業から逃れられないのが、歴史学である。だが、歴史読み物に触れるだけであれば、そのような手間をかけることなく、時代の流れや歴史人物の思考(と思われるもの)を味読できる。司馬作品や大衆歴史雑誌を手に取ることは、知的な愉しみに触れることを可能にしつつ、哲学・思想や実証史学に比べて、そのハードルは明らかに低かった。
日本的経営と「組織人としての人格陶冶」
「歴史ブーム」は、当時の労働環境にも親和的だった。
かつてであれば、ブルーカラーとホワイトカラーの昇進ルートはまったく異なっていた。大卒ホワイトカラーが入社早々に「職員」の身分を獲得できるのに対し、中卒ブルーカラーは35年以上の気の遠くなる期間を要することもあった。三井三池争議(1959‐60年)に代表されるように、景気変動や産業構造の変化に伴う工員の大量解雇も珍しくなかった。
しかし、1970年代になると、企業は高度成長の終焉やオイルショックに苦しみながらも、労働争議の痛手を被る大量解雇を避け、従業員の配置転換でしのごうとした。それを可能にすべく、ホワイトカラーとブルーカラーの昇進・給与体系が一本化された(小熊英二『日本社会のしくみ』講談社現代新書、2019年)。
そうなると、さまざまな部署や勤務地を渡り歩きながら一つの会社のなかで昇進していくことが、就業者の労働モデルとなる。必然的に、特定の職業技術を磨き上げていくことよりも、さまざまな部署で汎用性のある「組織人としての人格陶冶」「将来的なリーダーとしての行動規範」が重んじられるようになった。
「歴史」に学ぶことは、そうした思考の延長線上にあった。たしかに「歴史」への理解を深めたところで、目先の業務に直結することはない。だが、それはサラリーマンたちの「生き方」「行動規範」を考えるうえでの参照項となった。「歴史という教養」は、いわば「日本的経営」の成立とも結び付きながら、サラリーマンたちに希求されたのである。
人生雑誌
主に経済的な理由で高校や大学に進めなかった勤労青年たちを対象に、「生き方」「教養」「社会問題」などを扱った雑誌。読者の手記のほか、知識人による人文社会科学方面の論説や読書案内が掲載されていた。『葦』(葦会、1949年創刊)や『人生手帖』(文理書院、1952年創刊)が代表的。
後期中等教育
中学校(新制)卒業後18歳までの教育課程