ビジネス成功のために必要な知識を身に着ける「教養」がいま必要だ――。
このような文言を目にしたことはないだろうか?
しかし、その「教養」の中身を見ると、短時間でざっくり学べる名著の解説、インフルエンサーによる自己啓発セミナーなど……。
はたして、これらから学ぶことが本当に「教養」と言えるのか?
かつて「歴史小説」を読むことが、大衆にとっての「教養」となっていた時代があった。そんな時代を代表し、2023年の今年、生誕100年を迎える小説家・司馬遼太郎について社会学者の福間良明さんにご寄稿いただいた。
「余談」の教養
戦後の国民作家と言えば、真っ先に思い起こされるのが司馬遼太郎だろう。日露戦争を扱った『坂の上の雲』の累計発行部数は1970万部、坂本竜馬と幕末期を描いた『竜馬がゆく』に至っては2500万部にものぼる。ちなみに、今年(2023年)は司馬遼太郎生誕100年にあたり、3年後の2026年は没後30年を迎える。それほどの歳月を経てもなお、司馬遼太郎の歴史小説は広く読み継がれている。
とはいえ、よくよく考えてみれば、司馬作品はさほど読みやすいものではない。随所に「余談だが…」との断りが入り、時代背景の解説が挿入される。それも、物語の背後にある歴史だけであればまだしも、アジア史やヨーロッパ史との対比、昭和史や近代史・中世史との比較が数ページにわたって織り込まれることも珍しくない。読み手は登場人物の物語に浸っていたところ、唐突に集中力が断ち切られ、「歴史」の解説を読まされることになる。
なかでも、『坂の上の雲』は、その傾向が顕著だった。正岡子規や秋山好古・真之兄弟の軌跡が描かれる一方で、明治藩閥政府の閉塞性、明治陸軍ひいては昭和陸軍の組織病理など、政治史・軍事史に関する言及に多くのページが割かれている。小説としてのまとまりは、決して良いわけではない。司馬自身、「小説でも史伝でもなく、単なる書きもの」としている所以である(『歴史の中の日本』中公文庫、1976年)。
だが、司馬の「余談」が多くの読者を魅了してきたのも事実である。作家の田辺聖子は、「司馬さんの小説に頻出する『この時期』とか『余談ながら』という自作自注をどんなにたのしみ、期待して読んだことでしょう」と語っている(「弔辞」『文藝春秋』1996年5月臨時増刊号)。では、なぜ人々は司馬作品の「余談」を通して、「歴史」にふれようとしたのか。
サラリーマン層の読者が多かったことも、見過ごすべきではない。プレジデント社元社長の作家・諸井薫は、「司馬作品は小説ではなく、傑れた歴史読物として読まれたからこそ、これだけ幅広いビジネスマン層の強い支持を得られたのではないだろうか」と述べ、「余談」に惹きつけられるサラリーマン読者の存在を示唆している(「司馬ブームとは何だったのか」『文藝春秋』1996年5月臨時増刊号)。「歴史」に詳しくなったところで、日常業務に役立つわけではない。当面の成果を考えるのであれば、仕事の知識や技術を高めるほうが、よほど有益なはずである。にもかかわらず、サラリーマンたちは、なぜ司馬作品を「小説」ではなく「歴史読物」として手に取ったのか。
教養主義とノンエリート
この問いに向き合うことは、戦後の大衆教養主義を考えることにつながる。教養主義とは、「人文科学(文学・歴史・思想・哲学など)の読書を通じて人格を陶冶しなければならない」という規範文化を指す。大正期から1960年代半ばにかけて、旧制高校や大学のキャンパスで広がりを見せた。
当時、大学をはじめとする高等教育への進学率は、今日とは比較にならないほど低かった。昭和初期で2~3パーセント、1960年でも1割ほどでしかない。旧制高校生や大学生は、社会の中で明らかな学歴エリートだった。エリートであるからには、自らの出世や金銭的な利得ばかりをめざすべきではない。古今東西の叡智に若いうちに触れ、人間性を豊かにし、社会をよりよい方向に導くよう努めなければならない。こうした自負と使命感に支えられた読書文化が、教養主義である(竹内洋『教養主義の没落』中公新書、2003年)。
だが、教養主義は、学歴エリートのみに閉じていたわけでもない。経済的な理由から義務教育より上に進めなかった勤労青年たちも、青年学級の読書会や人生雑誌を通して、人文社会科学の「教養」に触れようとした。もちろん、エリート大学生たちのように、カントやマルクス、モーパッサンなどの原書を手にするようなことはなかったが、概説書や知識人の論説、あるいは国内外の文学作品を手に取ることは珍しくなかった。上の学校に進めなかった悔しさ、高校や大学に進学した同級生への羨望と鬱屈――こうした心情が、かえって勤労青年たちの「教養」への渇望を掻き立てた。
大衆教養主義の盛衰
1950年代半ばには、勤労青年たちの教養主義が最高潮を迎えた。折しも、高校進学率が5割に達していた。昭和初期であれば、中等学校(旧制中学・高等女学校・実業学校)への進学率は18パーセントほどでしかない(文部省『日本の成長と教育』1962年)。こうした状況下では、たとえ学業が優秀でも上の学校に進めないことは「当たり前」だった。しかし、戦後10年が経過し、半数が後期中等教育に進むようになると、成績が中位以下であっても高校(新制)に進学するケースは珍しくなくなった。家計の問題だけのために進学できない優秀層が不満を募らせるのは、当然だった。そのことが、進学者に劣らない「教養」を身につけようとする焦燥感につながった(拙著『「勤労青年」の教養文化史』岩波新書、2020年)。
だが、勤労青年たちの教養主義は、1960年代末にもなると、著しく衰退した。高校進学率は8割を超え、消費文化も広がりを見せていた。上級学校に進めない鬱屈を抱える層の存在は、社会的に目立たなくなった。
人生雑誌
主に経済的な理由で高校や大学に進めなかった勤労青年たちを対象に、「生き方」「教養」「社会問題」などを扱った雑誌。読者の手記のほか、知識人による人文社会科学方面の論説や読書案内が掲載されていた。『葦』(葦会、1949年創刊)や『人生手帖』(文理書院、1952年創刊)が代表的。
後期中等教育
中学校(新制)卒業後18歳までの教育課程