そこに浮かび上がるのは、人文知と一般の人々が相互に支え合うような文化である。司馬作品や大衆歴史雑誌の「歴史という教養」は、実証史学のような精緻さを備えていたわけではない。だが、それでも近現代史や古代史・中世史、比較文明論への興味関心を、サラリーマンをはじめとする一般の人々にかきたてた。読者のなかには、その延長で専門研究者の手による新書や選書を手に取り、さらに興味関心を広げた者も少なくはないだろう。司馬作品や大衆歴史雑誌は、一面では、アカデミズムと一般の人々を媒介するものであった。人文知がアカデミズムの枠を超えて、少なからぬ人々の知的関心をかきたて、また、その読者たちは彼らなりにあるべき文化や社会を構想する。こうした状況がかすかに垣間見えたのが、「司馬遼太郎の時代」「歴史ブームの時代」とも言うべき「昭和50年代」だった。
「歴史という教養」の現在
それから40年近くを経た今日、状況は少なからず変化しているように思われる。終身雇用や安定的な昇進の見通しが揺らぎ、「ジョブ型雇用」が言われるなか、「組織人としての人格陶冶」よりも特定の職業知識・技術の習得に重きが置かれるようになりつつある。だとすれば、中年サラリーマン層における「歴史という教養」の比重低下は避けられない。
アカデミズムも、一般の読者との乖離がゆるやかに進んでいるようにも思える。世界大学ランキングや国際卓越研究大学制度(大学ファンド)を意識して、評価の高い学術誌、なかでも英文ジャーナルへの成果発表が、理系のみならず文系の学問でも重視されつつある。それはそれで、有益なことではあるし、学問的な「国威発揚」にも資するだろう。だが、これらの学術誌を一般の人々が手にすることはまずない。そのことを考えれば、人文系の学問が一般社会から遠ざかり、アカデミズムの世界のみに自閉しているようにも見える。「歴史という教養」による一般の人々と人文知の架橋は、過去のものになりつつあるのかもしれない。
もっとも、教養本や関連動画サイトにアクセスする人々は、さほど少ないわけではない。だが、ともすれば、手軽さや効率、短期実利との結びつき求められたり、他人を出し抜くことが潜在的な目的になっていることもあるのではないだろうか。それは、自己の直接的なメリットを超えて、あるべき文化や社会を粘り強く、長期的な視野で思考することとは、いささか異なっているようにも思える。
かといって、往時の「歴史という教養」がバラ色だったのかというと、決してそうではない。司馬遼太郎の代表作と目される『坂の上の雲』は、日露戦争に勝利した明治日本の「明るさ」を人々に印象付けた。そのことは、戦後後期の大衆ナショナリズムを下支えし、ときに旧日本軍の暴力を不問に付すかのような態度と結び付くこともあった。「歴史ブーム」の危うさも、そこにある。
だが、そもそも司馬の歴史小説では、「明治の明るさ」のみが描かれたわけではない。司馬は、明治期のさまざまな桎梏(しっこく)に言及しただけではなく、昭和戦前期の政治・軍の不合理や組織病理についても、「余談」のなかで苛烈に問いただしていた。そこには、学徒兵として戦車部隊に動員された司馬自身の戦争体験も投影されていた。しかし、これらは総じて、「明治の明るさ」の影にかすみ、さほど読者の注目するところとはならなかった。
苦い歴史から目を背けることなく、また、自らの実利や効率ばかりにとらわれることなく、あるべき文化や社会を長期的な視野に立って、いかに粘り強く構想するか。それは、アカデミズムのみに向けられた問いではなく、「民主主義」を生きる人々すべてに向けられた問いでもある。往時の「歴史という教養」は、その問いの重さを今日に訴えている。
人生雑誌
主に経済的な理由で高校や大学に進めなかった勤労青年たちを対象に、「生き方」「教養」「社会問題」などを扱った雑誌。読者の手記のほか、知識人による人文社会科学方面の論説や読書案内が掲載されていた。『葦』(葦会、1949年創刊)や『人生手帖』(文理書院、1952年創刊)が代表的。
後期中等教育
中学校(新制)卒業後18歳までの教育課程