【10月】湯川秀樹(当時38歳・京都にて)
10月3日(水)
Mac Arthur司令部に提出すべき研究報告書作製に忙がし.小島 小松両君来室.晩高垣先生来宅
10月4日(木)
朝早く登校.部長室にて米第六軍士官四名と会見.理学部の研究につき質問を受ける.昼前 李泰圭君来室 近く帰鮮の由.
『湯川秀樹日記1945』湯川秀樹 小沼通二編 京都新聞出版センター
【紹介】
湯川秀樹(1907~1981)は日本で初めてノーベル賞を受賞した物理学者である。戦中、日本の原爆開発に関わったが、それについては戦後いっさい語らなかった。しかし、日記には「F研究」という表記で軍事研究の会合に出席したという記録が残っている。
広島に落ちた原爆について新聞社から解説を求められたが断っている。また広島での現地調査の報告を受けた際にも感想は記していない。だが、何も思わなかったはずがない。9月頃からたびたび米軍士官の訪問があり、研究についての調査を受けている。狙いは湯川の軍事研究についてだった。しかしその後、湯川が罪に問われることはなかった。
戦後しばし沈黙を守っていたが、1948年にオッペンハイマーに招聘されプリンストンに滞在した際にアインシュタインと親交を結び、1955年にラッセル・アインシュタイン宣言に署名し、世界に向けた核兵器廃絶と平和運動の先頭に立つ。科学研究は二度と戦争に利用されてはならないという湯川の思いが戦後花開く。
【解説】
日記というよりも日常的な瑣事の備忘録といった趣で、何処に行って何をしたのかということだけが簡潔に記されている。心情や考えは見事に何も書かれていない。
まず気づくのは来客の多さだ。同僚や学生など家や研究室に実に多くの人が湯川に会いに来ている。哲学にも関心を持ち西田幾多郎との親交があった湯川らしく、その中には京都学派の哲学者たちもいて交友の広さがうかがえる。また「今朝一家六人遠足.衹園,圓山,清水,本願寺.」(4月3日)など、京都での家族との暮らしの断片も時々のぞく。
8月15日は「登校 朝 散髪し 身じまひする」「正午より 聖上陛下の御放送あり」「ポツダム宣言 御受諾の已むなきことを御諭しあり.大東亜戦争は遂に終結」とあるだけだ。ただ7月28日には、ポツダム宣言の条件をすべて書き出した上で「われわれはこの条件を固守する他に選択の余地はない.猶予することはない」と記し、その思いが一瞬閃く。
戦中の軍事研究から戦後の平和運動へ。日本を代表する科学者の心のうちを知りたい読者にとっては身辺雑事を記したこの日記は物足りなく思うかもしれない。しかし、だからこそ湯川が語り得なかったことへと思いを馳せることもできる。
この星に人絶えはてし後の世の永夜清宵何の所為ぞや(「原子雲」)
歌人でもあった湯川が残した歌だ。核戦争の果ての世界の景色に、彼の深い悔恨とそれと等量の怒りが刻まれている。