鳩山政権が普天間基地移設問題で行き詰まり退陣したのを受けて、民主党代表の菅直人を首相として2010年6月8日誕生した政権。民主党と国民新党との連立政権。就任の記者会見では「最小不幸社会」を目指すとしたが、参議院選挙マニフェストの発表で、消費税引き上げ幅について「自由民主党(自民党)の10%を一つの参考にさせていただきたい」と表明したため、支持率が急落。その影響で7月参議院選挙では民主党44議席と大敗したものの続投した。9月党代表選では元代表小沢一郎と全面対決して圧勝した。党役員や内閣改造人事で“脱小沢”を貫いたことが評価され支持率は急回復した。ところが代表選中に発生した尖閣諸島沖での中国漁船と巡視船との衝突事故に関して、船長釈放などの対中国外交が「弱腰」と野党から批判され、支持率も再び急落した。海上保安庁のビデオ映像がインターネットのユーチューブに流出するなど情報管理の不手際も目立った。前政権と同様に「政治とカネ」の問題にも苦しめられた。東京第5検察審査会が10月4日、小沢に対する2度目の「起訴相当」議決を発表したため、野党は国会での証人喚問を求めたが、民主党は受け入れず、政治倫理審査会出席も実現しなかった。10月1日召集した臨時国会はもともと「衆参ねじれ国会」の厳しい状況に加えて、こうした内政・外交の不手際が重なり補正予算を成立させるのがやっとだった。柳田稔法相は国会軽視発言のため問責決議案を採決する直前に辞任。仙谷由人官房長官と馬淵澄夫国土交通相に対する問責決議案は参議院本会議で野党多数により可決された。内閣支持率は政権の危険ラインといわれる30%を割り込んだため、臨時国会後に諫早湾干拓開門訴訟の上告断念、法人税の5%引き下げなどで指導力を演出した。11年1月の通常国会を前に仙谷官房長官の更迭を含む内閣改造を断行。たちあがれ日本共同代表だった与謝野馨を一本釣りで入閣させ、社会保障一体改革相に起用し、野党との架け橋を期待したが、野党は強く反発した。外国人献金問題で前原誠司外相が3月6日辞任したあと、同11日には菅首相自身への外国人献金問題が指摘され窮地に立たされたが、その11日午後、東日本大震災が起きた。大津波により死者・行方不明約1万9000人に上る大惨事となり、その影響で東京電力福島第一原子力発電所で12日から15日にかけて相次いで原発の水素爆発が起き、初の原子力緊急事態を宣言するとともに周辺住民に避難を指示した。菅首相は同19日、自民党の谷垣禎一総裁に電話で、副総理兼震災復興担当相で入閣するよう要請したが、断られた。菅首相の震災対応、特に原発事故対応への批判が高まり、内閣不信任案が提出された。民主党内からも造反の動きが出る緊迫したなかで、6月2日の採決を前に菅首相は「一定のめど」がつけば「若い世代に責任を引き継いでもらいたい」と事実上の辞意を表明、内閣不信任案は否決された。6月27日、復興相に松本龍防災担当相を任命したが、暴言で7月5日に引責辞任した。菅首相は辞意表明後も驚くべき粘り腰をみせ、「2010年代半ばに消費税を10%」とする社会保障と税の一体改革の政府・与党案を決定。浜岡原子力発電所の全原発の停止を要請、将来の「脱原発」方針も表明した。第2次補正予算など退陣3条件が満たされたため、8月26日、正式に辞任を表明した。