さまざまな反自民勢力のうちリベラル勢力を軸に1996年9月28日に結成され、さらに新進党解党後に分党してできた各新党を合流させて98年4月27日、新「民主党」として旗揚げした民主中道路線を掲げる政党。第1次民主党の時は野党第二党に甘んじ、路線的にも野(や)党か与(よ)党か性格があいまいなため「ゆ党」と揶揄(やゆ)されたりした。当初、菅直人、鳩山由紀夫の「二人党首(代表)制」を敷いていたが、97年9月には一人代表制に移行、菅代表―鳩山幹事長体制となった。97年末の新進党解党に伴い、まず98年1月7日、野党6党による衆議院大統一会派として民主友愛太陽国民連合(略称・民友連)を結成、さらに「政権戦略会議」(議長・細川護煕元首相)で新党協議を続行し、3月12日合意に達した。新党名は「民主党」とし、政治路線として「民主中道」を掲げ、代表には菅が就任した。これにより名実ともに自由民主党(自民党)と政権を争う野党第一党となった。99年1月には菅代表が再選されたものの、9月代表選では鳩山が菅、横路孝弘を破って第2代代表に選出された。2002年代表選では鳩山が勝ったものの、唐突に進めた自由党との合流・新党構想が引き金となって12月辞任した。代表には菅が返り咲いた。菅は03年7月、小沢一郎自由党党首との間で両党の合併に合意し、合併大会が10月5日に行われた。菅は04年5月、年金未納問題が明らかになり代表辞任に追い込まれた。後継には岡田克也が就任。岡田代表は民主党を「政権準備政党」と位置づけたが、05年9月総選挙で113議席と惨敗し退陣。43歳の前原誠司が選出され、「対案」路線で臨んだが、06年4月、「偽メール問題」混乱の責任を取って辞任した。新代表には小沢一郎が選出され、「対立軸」路線を打ち出して自民党との対決色を強めた。07年参議院選挙では改選32議席から60議席に勢力を伸ばした。福田政権の登場を受けて、小沢代表は福田康夫首相との間で党首会談を行い「大連立」構想をめぐり協議したが、不調に終わり、小沢代表がいったん辞意を表明するなど大きく動揺した。09年3月、小沢代表の公設第一秘書が西松建設事件との絡みで、東京地検に政治資金規正法違反で逮捕され、いったんは続投を表明したが、5月連休明けの11日辞任を表明した。後継代表には鳩山由紀夫が返り咲き、同年8月総選挙で308議席を獲得して政権に就いた。鳩山政権は米軍普天間基地移設問題の挫折、鳩山首相自身と小沢幹事長の「政治とカネ」の問題で行き詰まり、10年6月2日、退陣を表明した。後継の代表には菅直人が樽床伸二を破って当選、首相に選出された(→「菅政権(菅直人政権)」)。9月末の任期切れに伴う代表選は本来のポイント制に基づく2度目の選挙となったが、菅首相と小沢元代表が激突し、菅が721ポイントを獲得し小沢491ポイントに圧倒的な差をつけて大勝した。10年末から11年にかけて民主党執行部は小沢に対して政治倫理審査会への出席を求め、小沢が抵抗。小沢の「政治とカネ」の問題をめぐり菅首相支持派と小沢支持派との党内確執が激化した。菅首相が退陣表明したのを受けて11年8月、代表選が行われ、野田佳彦が決選投票で海江田万里を破った(→「野田政権(野田佳彦政権)」)。12年1月党大会で党員規約を改正した。12月総選挙で大敗し、野田が代表辞任を表明したのを受けて代表選が行われ、海江田万里が後継代表に選出された。14年12月総選挙では微増にとどまり、海江田自身が落選したため代表を辞任。後継には岡田克也が代表に復帰した。