その一人が、「夕張の母」とも呼ばれる理容店を営む小川実千代さん(66歳)だ。私たちが取材していることを知った彼女は、ある夜、夕食を食べに来るようにと誘ってくれた。実千代さんの揚げた絶妙な大葉の天ぷらでお酒もすすんだ。
「お腹いっぱい食べてれば、幸せ。お腹いっぱいなら人は悪さしないってね」
これは、実千代さんのお母さんの口癖だったという。炭鉱で栄えていた頃にお父さんの代から理容店は始まった。24時間、3交代制でひっきりなしに働いていた炭鉱の人々。そんな炭鉱夫やその家族が集まる場所が、実千代さんの家の理容店だった。
「いつも誰かが食卓にいる生活だった」と実千代さんは言う。地方出身の親元、関東の核家族のなかで育った私には驚きだった。
実千代さんの夫、正隆さんは炭鉱閉山と財政破綻で2度も職を失った。1981年に起きた坑内ガス爆発では仕事仲間を亡くした。そうした経験からも、実千代さんの仕事に対する想いは強かった。
「仕事を持つことで、男女関係なく自立できる。それにいざ旦那が病気になったり、亡くなったら支柱にならなきゃでしょ」と実千代さんは言う。夕張に住む人たちにどんな困難が降り掛かろうと、実千代さんはハサミ一本で理容師の仕事を続けた。
「夕張、喰う(苦)ばり、坂ばかり。ドカンとくれば、死ぬばかり」
これは実千代さんが教えてくれた夕張の唄だ。炭鉱での過酷で危険な労働をこなしながら、その日その日を一生懸命生きてきた人々の姿が感じられるこの唄を聞くと、夕張にまだ残る勢いのよい、活気ある人々の背景が見えるような気がする。
夕食を食べた後、実千代さんは光沢のあるラベンダー色の生地に虎が刺繍してある夕張よさこいの衣装を羽織り、よさこいの舞を見せてくれた。
夕張には友子(ともこ)制度といって大黒柱となる炭鉱夫の父親が傷病に臥し、または亡くなった場合にはその家族を救済するという鉱山労働者たちの相互扶助制度が存在した。その名残なのか、炭鉱仲間や隣近所が助け合いながら生活するということが今でも当たり前のようになされていた。
「ベニヤ板一枚で仕切ってあるような炭鉱の街の長屋で育ったから近所とは身内みたいに付き合って、困ったら助け合うのが当たり前だったからね」と実千代さん。
前夕張市長で、今年(2019年)から道知事になった鈴木直道さんは、2008年に東京都の派遣職員として夕張に引っ越してきたばかりだった当時、密封容器に入ったおかずが自宅玄関のドアノブに掛かっていて驚いたという。
「手作りで手紙も入っていなくて、普通だったら怪しくて、これ大丈夫かなって気になると思うんですけど。それに、誰に入れ物を返せばいいんだろうって。でも、これが普通なんですよね」
都心に住んでいてこんなことがあったら、確かにまず警戒してしまうだろう。隣人たちとのこの不思議な距離感は、この土地ならではのものだろう。
「便利じゃないがゆえに人に助けてもらったり、そんなことを自然にできるのが夕張。自分で何でもかんでもできるところであれば、そういう人間関係は生まれないと思う」と鈴木さんは言う。
夕張は、私たちが都会で失いかけている「人との繋がり」へのヒントを秘めているのではないか。そんなことに気付き、報道番組で高齢化問題として切り取るのではなく、映像を通して夕張の人々に触れられるような作品にしようと思い、私は初めて自主製作でドキュメタリー映画を作ることにした。
夕張という町で出会った人々に魅了され、取材を始めてから今年で5年目になる。人々が支え合い、生き続ける夕張の魅力を、映像を通して伝えるため、夕張の人々に助けられながら、現在夕張のドキュメンタリー『ユーパロのミチ』の製作を進めている。