辺野古新基地に賛成か反対か。長く続いた論争は過去のものになった。2019年2月24日に投開票された沖縄県民投票は、「反対」が72%。「賛成」が19%、「どちらでもない」が9%。沖縄の最終結論が出た。
振り返れば1997年12月21日、新基地建設の地元名護市であった市民投票はもっと接戦だった。4択のうち「反対」と「環境対策や経済効果が期待できないので反対」を合わせた反対票の総数が53%、「賛成」「環境対策や経済効果が期待できるので賛成」の合計は45%。対照的な県民投票の結果は、21年余りの苦しい道のりを経て沖縄の民意がたどりついた到達点を示している。
政府が大規模に介入した名護市民投票
97年の名護市民投票では、経済界が中心になって「条件付き賛成」の運動を展開した。シャッターが目立つ中心市街地では再開発、農村地域では農業への補助をアピールするビラをきめ細かくまき、基地と引き換えの地域発展を訴えた。
市民投票には公職選挙法が適用されない。基地建設を進めたい政府自身も、直接介入した。防衛庁(当時)は沖縄勤務の職員に加え、本土で勤務する沖縄出身の職員も呼び戻して200人を動員。パンフレットを持たせ、公務として二人1組で戸別訪問させた。それを「ゆいまーる運動」(沖縄の言葉で助け合いを示す)と名付けた。
久間章生長官(当時)は、やはり沖縄勤務や沖縄出身の自衛官に「お知り合いの方が名護市にいらっしゃれば、是非ご鳳声(ほうせい=伝言)いただきたい」と、集票を求める書簡を送った。大蔵省(当時)出身の事務次官は、沖縄の金融機関を訪ねて協力を依頼した。なりふり構わず、勝ちにいった。
だからこそ投開票日の夜、反対多数の結果が判明すると、「反対に○」を訴えた運動体の事務所では喜びが爆発した。何度も万歳が繰り返され、涙を流す人も。「市民は本当に踏ん張った」というリーダーの安堵の声が全てを物語っていた。
対照的に今回の県民投票の夜、反対運動の名護支部事務所には穏やかな笑顔が並んだ。派手な万歳はなく、和やかに杯を交わす。名護市民投票にも関わった女性は言った。「賛成派に勝ったから万歳、ではない」「本当の相手は政府。賛成に入れた人も含めて、県民が一緒になって向き合っていく」
名護支部だけではない。那覇市にある反対運動の本部も、当初は投開票日の夜に集まる予定さえなかった。報道陣の要望に応えて集まったがやはり万歳はせず、「政府との闘いは続くという意味を込めて」ガンバロー三唱で運動を締めくくった。
反対多数の結果は事前に分かっていた、とも言える。理由はいくつも挙げられる。名護市民投票当時は沖合の撤去可能な「海上ヘリポート」だった建設案が、沿岸部160ヘクタールを埋め立て、2本の滑走路と軍港を併設する恒久複合施設に肥大した。
また、普天間飛行場の代替地を全国に求めた民主党政権時代、手を挙げる本土の自治体はなかった。沖縄も本土と同じように反対していたが、新基地計画を
押し付けられた。県民は、差別というものを目に見る形で知った。
以降、知事選挙や国政選挙では新基地反対の候補者を勝たせ続けてきた。それでも政府が「争点は基地だけではない」などと言い募って民意を認めないから、単一の争点に絞った。県民投票は最終的な確認の取り組みだった。
東京の自民関係者からの電話
政府の側も、正面から議論して勝てないことは熟知していた。だから、舞台そのものを壊そうとした。
政府と歩調を合わせる保守系の5市長(宜野湾、沖縄、うるま、宮古島、石垣)が、投票事務を拒否した。理由は「市議会の意思を尊重する」。各市議会が、事務経費の予算案を否決していた。その市議たちは、弁護士資格を持つ自民党の宮崎政久衆議院議員(沖縄2区で落選し比例復活)によりどころを求めた。
宮崎氏は勉強会を開き、「否決することに全力を尽くすべきである」「議員が損害賠償などの法的な責任を負うことはない」などと市議たちの背中を押した。政府・自民党が組織的に関与した証拠はない。ただ、市議会の審議中に県民投票賛成から退席に転じた市議は、「東京の自民党関係者からも電話がすごかった」と漏らした。
「私たちの声を奪うのか」。人質に取られた形の5市の市民は強く反発した。全市民を代表し、全市民に奉仕すべき政治家に全市民の声をまとめて封殺する権利などない。法的にも、国政選挙の投票事務を自治体が政治的理由で拒否するのと変わらない異常事態だと指摘された。
日ごと高まる批判にさらされ、5市長や自民党にも妥協を探る動きが出た。結局、「賛成」「反対」の当初案に「どちらでもない」を加えた3択にすることで、全県同時実施への道筋がついた。
舞台は整ったものの、自民党と公明党は自主投票を決めた。日ごろ新基地建設について「地元の理解と協力を得ながら進める」と繰り返す菅義偉官房長官も、「地方公共団体が条例に基づいて行うものであり、政府としてコメントすることは差し控える」と言うのみ。同じように地方の条例に基づいて実施された名護市民投票で、先に見たような大規模介入をしたこととの整合性を問われても、口をつぐんだ。
政府の逃げは徹底していた。討論会にも出ず、メディアの取材も断る。本当に辺野古新基地建設が普天間飛行場を返還する「唯一の選択肢」であり「早道」であるなら、堂々と県民を説得すべきだった。「理解と協力」を得る絶好のチャンスに背を向け、正当性のなさを自ら明らかにしてしまった。
政治的打算を払拭したハンガーストライキ
一方、共産党、社民党、沖縄の地域政党である沖縄社会大衆党などで構成する玉城知事の県政与党側も、県民投票をめぐっては姿勢がぶれ続けた。任期途中で死去した翁長雄志前知事の時代、最初に県民投票の案が浮上した時から、「選挙で民意は示している」「負けた場合のリスクが大きすぎる」などと慎重姿勢を示す議員が多かった。
そこへ、政治的打算を抜きに、県民投票実現を求めるグループが登場した。若者や経済人らが集う「『辺野古』県民投票の会」は2018年5月、条例制定を求める署名集めを始めた。「話そう、基地のこと。決めよう、沖縄の未来」をテーマに掲げ、賛成でも反対でも、意見を交わし、意思を示そうと呼び掛けた。
県政与党は後追いで署名活動への協力を決めた。署名が9万2000筆余り集まり、条例案が県議会に提案されたのは2018年9月。自公は賛否の2択に「やむを得ない」「どちらとも言えない」を加えた4択とする案を提示したが、県政与党ははねつけた。
確かに「やむを得ない」は実質的に賛成の選択であり、わざわざ選択肢を追加するまでもない。「どちらとも言えない」と考える人も、棄権や白票で表現できる。政策を直接民主主義で選び取る県民投票において、賛否以外の選択肢には必然性がなく、反対をなるべく薄めようとする狙いも透けて見えた。
ただ、県議会での審議は議論も少ないまま与党多数の力で押し切るような形で終わった。この時の自民党の不満が5市の投票事務拒否の伏線となった。一方、県政与党は2019年の衆議院補欠選挙、参議院選挙で5市や自民党への批判を自陣営の追い風に利用する計算があって、放置しかけた。
誰も事態を収拾しようとしないまま、時間切れを迎えようとしていた2019年1月。県民投票の会の代表、27歳の元山仁士郎氏が単身でハンガーストライキに打って出た。1日がたち、2日がたち、ドクターストップがかかった5日目まで続いた。
反響は大きかった。「若者にこんな思いをさせてしまっている私たち大人とは何なのか」。県民の間に共感と自責の念が広がった。