進行する「お産」の崩壊
医療技術の進歩によって、この50年間で国内の出産における母体の死亡率は80分の1、胎児の死亡率は40分の1に減った。今や、日本の周産期医療は世界でも有数の水準に達している。しかし一方で、その足元を揺るがす事態が進行している。産婦人科医が減り続けているのだ。厚生労働省の医師数調査によると、医師総数は増加しているものの、産婦人科だけが減少を続けている。1994~2004年までの10年間で、医師の総数は16.2%増えたが、産婦人科医は8.6%も減った。これに伴い、出産を扱う施設も減り、「いつでもどこでも安心してお産ができる」体制が崩壊しつつある。
まず、産婦人科医不足の実態を示すデータから紹介する。
日本産科婦人科学会の全国調査によると、05年12月時点で、出産に携わる常勤の医師は全国で計7873人だった。厚労省の04年調査では、産科や産婦人科に従事する医師は約1万500人で、その多くが出産に携わっているとみられていたが、実際は4分の3しか出産に関与していなかった。
また、出産を取り扱う施設も、従来の厚労省調査のほぼ半数の全国3056カ所だった。出産は扱わず、妊婦健診だけ扱う施設は計1677カ所もあった。医師不足で出産をやめ、健診だけに移行したためとみられる。
常勤の医師数は、出産を取り扱う施設で平均2.45人だった。この結果、夜間の出産や患者の急変に対応する「宿直」の回数が増え、労働の長時間化につながっている。栃木県医療対策協議会の04年の調査によると、規模が小さい施設(200床未満)では、月平均7回以上の宿直をこなしていた。
また、大学病院から産婦人科医の派遣を受け、出産を扱う全国927病院を対象に実施した調査では、常勤の医師が1人しかいない施設が全国で132カ所(全体の14%)もあった。
悪循環に陥るお産の現場
産婦人科医減少の背景には、①人員不足による過酷な労働環境、②新臨床研修制度、③女性医師の増加、④他診療科に比べ多い医療訴訟、などがあると指摘されている。労働環境については既に述べたように、出産という「24時間体制の医療」に少ない人数で対応するため、一人ひとりの医師の負担が増えている。休日も出勤し、当直明けでも夜まで通常勤務を続けるため、疲弊した医師たちが、出産を取り扱わない婦人科や、他の診療科へ移っていくという悪循環につながっている。
2004年に始まった新臨床研修制度は、医師免許を取ったばかりの新人研修医が、2年かけて、さまざまな診療科を学ぶ制度だ。特定の診療科の医局に所属することの多かった従来の研修方法と異なり、新制度が始まった当初は、一つの診療科を専攻する新人がゼロになる事態になった。特に、既に医師不足が始まっていた産婦人科に大きな打撃を与えた。また、研修中に厳しい労働環境を知った若手医師の「産婦人科離れ」が加速したともいわれる。
女性医師に関しては、日本産科婦人科学会の調査によると、会員のうち50歳代以上の女性医師の割合は10%前後だったが、30歳代で4割を超え、20歳代は7~8割に達する。産婦人科の患者は女性が大半で、「女性医師の方が好まれる」との風潮が広がったためとみられる。一方、女性医師は出産・育児で一時的に職場から離れる可能性があり、若い女性医師の増加は、今後、中堅医師の不足に拍車をかける可能性が高い。
04年、福島県立大野病院で患者が帝王切開手術中に死亡した事故をめぐり、06年に担当した産婦人科医が業務上過失致死容疑などで逮捕、起訴された事件は、多くの産婦人科医にショックを与えた。
日本の周産期医療が世界有数のレベルにあるとはいえ、その一方で、大量出血などで命の危機に直面する出産は、250例に1例の割合で発生しているという現実もある(日本産科婦人科学会調べ)。「出産には危険が伴う」という認識が社会全体から薄れ、出産のトラブルが訴訟や事件に結びつきやすくなり、医師が産婦人科を離れる一因になっている。
崩壊は食い止められるのか
このような事態を解決するためには、どんな対策が必要なのか。日本産科婦人科学会の検討委員会は今年4月、産婦人科医療の望ましい提供体制の青写真を提案した。具体策として、①人口30万~100万人か出生数3000~1万人ごとに、24時間体制で出産に対応する「地域産婦人科センター」を設置、②病院と診療所・助産所の連携強化、③救急搬送に対応する病院の紹介システムの構築、④勤務内容・量に応じた給与体系の確立、⑤医療事故の原因究明機関の整備――などを掲げた。
また、女性医師が働き続ける環境整備として、施設内の保育所の整備や、パートタイムなどの多様な勤務形態の必要性を提案している。新人医師向けのリクルートDVDの制作にも着手した。
だが、青写真の実現には、公的な財政支援や、施設の統廃合・集約化などが避けられず、道のりは険しい。施設によって対応できる出産が異なることや、希望以外の病院に搬送される場合があることを妊婦自身が理解することなど、患者側の意識改革も不可欠だ。