新型インフルの正体は豚の病気
そもそもA型インフルエンザウイルスは、カモなど水鳥の間で感染を繰り返していたのが、突然変異で他のほ乳動物にも感染しはじめ、今では人、豚、馬、犬、猫などを感染宿主とする変異種ウイルスが自然界に多数存在するようになったものだ。ここまで至るには相当長い年月がかかったことだろう。そのため、通常、人を宿主とするインフルエンザウイルスは、人間の体内でのみ生存や増殖ができるように遺伝子が変異しており、豚や馬には感染しない。同様に豚インフルも、豚から他の動物へ感染することはめったにない。ただし、豚や鳥を宿主とするウイルスは、たやすく変異を起こすうえ、人を宿主とするウイルスと親戚のような存在なので、時として人に感染することがある。アメリカでは以前から、養豚業者や豚展示会の参加者の間で、豚インフルの感染が時折あった。しかし、その頻度は年間1例にも満たない。また豚から人に感染した豚インフルが、さらに別の人へと二次感染した事例は、1976年にアメリカでわずかに確認されているぐらいで、それ以外はほとんどなかった。
今回の経緯においては、カリフォルニア州での感染と前後して、同州に隣接するメキシコで、原因不明の高致死性の呼吸器感染症が蔓延(まんえん)し、4月末までに若者を中心に約150人もの死者を出したというニュースが入った。そこでメキシコで採取した病原体をCDCが分析したところ、カリフォルニア州で人・人感染を起こしたH1N1豚インフルA型株と同一であることが判明したため、瞬く間に世界中に衝撃が広がったのだ。
早速、WHO(世界保健機関)は、4月25日に緊急事態宣言を発令し、このままでは「パンデミック」と呼ばれる世界的感染拡大の恐れがあるという旨の懸念を表明。そうして同28日に、新型インフルエンザについて設けられた6段階の警報フェーズを、従来の「3」から「4」へと引き上げたのである。
WHOが定めている警報フェーズ「4」は、他の動物を宿主としていたウイルスが、何らかの理由で人から人へ感染できる能力を獲得し、しかも感染域を広げ始めていることが確認された場合に発令される。このまま世界中に蔓延すれば、かつて全人口の50%が感染したスペイン風邪のような状況になる可能性がある、という段階である。WHOでは、30日に警報フェーズをさらに過去最高の「5」に引き上げ、パンデミックはすぐにでも発生するとの見解を発表し、各国に拡大予防策を強化するよう警告した。
この時点をもって、日本の政府および関係機関は、豚インフルエンザという呼び名を、新型インフルエンザに変更した。もはや豚の病気ではなく、人由来の新しい感染症であることが宣言されたのだ。以前から騒がれていた新型インフルがついに発生したことで、戸惑いを感じた人は少なくないだろう。
現段階で知っておきたいこと
ここで重要なことを忘れてはいけない。発病者の大半が軽症だという点である。WHOの見解通り、人・人感染により、パンデミック発生の可能性が高まっているのは間違いない。ただし、致死率60%以上と想定されるH5N1鳥インフルエンザウイルスに比べれば、現行のウイルスは弱毒性で、臨床的に軽症型である可能性が大きい。そのことはWHO、CDC、加えてカナダやイギリス等の専門家も断定的意見として相次いで発表している。すなわち、この新型豚インフル感染の広がりは、疫学的には重大な事件であるが、今の時点では「一般の人々はそれほど心配する必要はない」ということである。日本では検疫法や感染症法が先走ってしまい、あらかじめ作成しておいた行動計画に基づく新型インフルエンザ対策が、すでに各地で実施され始めている。しかしその計画は、あくまでも人・人感染を起こすように変異して、多くの犠牲者を出すかもしれないH5N1鳥インフルエンザウイルスの国内侵入に対するものである。
総合的に判断して、今回、本当に私たちが恐れていた「新型インフルエンザ」が発生したとは、今の時点では申し上げにくい。しかるに、日本政府は「新型」という名称をうまく利用し、じつは都合よく危機対応の演習を行っているような感じがする。まあそれは良しとしても、感染疑い者を感覚的に犯罪人かのように扱うのはいかがなものか。
今回の騒ぎで、マスクが手に入らないと心配する人がいる。感染者が側にきたら心配だという人もいる。そういう人たちは、今まで冬場の季節性インフルエンザに対しても、そのような不安を抱いていたのだろうか。
アメリカ政府は国民に対し、CDCを通じて「ウイルスは国内に広がった。現在、確認されている患者は一握りの可能性があり、今後も患者数は増えるだろう。しかしウイルスの病原性は低い」と報告した。また死者が出たことについて、ワシントン州知事は「このインフルエンザは軽い。といっても季節性インフルエンザ並みには重篤だ」と述べている。
もちろん今回の新型ウイルスが、タミフル耐性H1N1ソ連A型株、またはH3N2香港A型株と遺伝子組み換えを起こしている可能性は十分にある。アメリカでそうした徴候が確認されているのだ。怖い話だから誰も言い出さないのかも知れないが、日本でもこれから発生するA型インフルエンザウイルスについては、迅速に分析を行う必要があるだろう。
まずは実態のない、政府が概念として作り上げた新型インフルエンザ対策を、現実に即したものへと移行する作業が、本当は今、いちばん急がれるのではないか。そのためには、国のお抱えではない、視野が広く責任感のある、公衆衛生専門家や臨床ウイルス専門家が中心となって対策を協議し、政策化してゆくことが望まれる。
本当の危険は秋以降に訪れる?
これから先、北半球は気温と湿度の高い夏季に入るため、今までの例で考えればウイルスは次第に不活発となり、新型豚インフルの流行も終息に向かうだろう。しかし私たち研究者にとっては、いったんは治まるが、実は気温と湿度が下がる秋ごろから、ウイルスが再び活発化して、世界的に広がることのほうが懸念される。だとすれば、日本政府にはそれまでの猶予を最大限に利用して、早急にH1N1新型豚インフルA型株の特性を見極め、ワクチン等の対策を急ぐべきであると提唱したい。すでにWHOやCDCでは、この秋に間に合うようなスケジュールで、この新型インフルのワクチンを製造する準備に入っている。日本政府も同じような動きを見せているが、ワクチンを製造するために必要な鶏の有精卵数に限界があるため、季節性インフルエンザのワクチン製造との兼ね合いがあり、目下、厚生労働省を中心として慎重に検討中である。
最後に、現時点で急ぐべき対策をまとめてみた。
(1)国内で散発的に発生しているA型ウイルス株の分析。(2)今冬のワクチン組成の選定(政府は豚インフルのワクチン製造のため、季節性インフルエンザのワクチン製造を中止する考えを当初示したが、それは危険な考え方である。実際には何が流行するのか分からない)。(3)抗インフルエンザ薬の各地域への分配。(4)抗インフルエンザ薬の使用方法の決定。