「高い参加意識」のカラクリ
2009年8月3日の東京地方裁判所を皮切りに、各地で裁判員裁判が始まりました。始まる前からいろいろな問題点が指摘されていましたが、実際の裁判では何が問題になったのでしょうか。それを点検してみましょう。裁判員制度の実施前には、新聞社などによるアンケート調査によれば、約8割の人が、裁判員になることに消極的でした。そのため、裁判で必要な裁判員数を確保できるか、選ばれた裁判員に前向きな態度で裁判に取り組んでもらえるのかなどが注目されていました。
最初に開かれた東京地裁の裁判員裁判(8月3日)では、呼び出しを受けて出頭を求められた49人中、実際には47人が出頭しました。さいたま地裁で開かれた2例目の裁判員裁判(8月10日)では、44人中41人が、また3例目の青森地裁(9月2日)では、39人中34人が出頭しました。それぞれ96%、93%、87%の出頭率です。また裁判員たちは一様に、「経験して良かった」という感想を述べています。
これをもって、一部のマスコミは「参加意識の高さが浮かび上がった」と報じています(8月3日付産経新聞)。しかし、8割が消極的だった裁判員制度への参加意識が、突如として高くなるはずはありません。実は、出頭率がこれだけ高まったのは、裁判員の選任段階で、裁判所が候補者を精査し、参加に意欲的な人だけを選び出したからです。さいたま地裁の裁判では、裁判員候補者名簿から候補者を選別する段階と、呼出状の発送後との二度にわたって行われる書面審査で、出頭に問題がありそうな43人を外しています。また、出頭後の選任手続きにおいても、身体、精神などに重大な不利益が生じることを理由に、7人の辞退を認めています。
裁判員法によれば、裁判員候補者は、呼び出しに応じて出頭しなければ処罰されます。その意味で出頭は義務です。しかし、裁判員になりたい人だけになってもらうような運用は、裁判員裁判への参加を「義務」ではなく「権利」に近づけて運用するものといえます。それにより、裁判員への心理的負担を減らすことができるだけでなく、裁判員制度を国民主権の具体化として位置づけることも可能になり、より一層、制度に正当性を与えることにもなるでしょう。
ただ、そのような運用によって裁判員裁判がスムーズに進むのであれば、そもそも、罰則規定は廃止すべきです。
量刑判断のための配慮が不可欠
裁判員裁判は、3件目の青森地裁の事件まではすべて自白事件、つまり被告人が起訴事実を認めている事件でした。自白事件の焦点は、ほぼ量刑判断に限られます。量刑判断に関して裁判所は、裁判員への手助けになるように「量刑検索システム」を提供しているようです。「量刑検索システム」とは、従来の裁判例をもとに、類似事件の量刑の分布状況を棒グラフで表示するなどしたデータベースです。ただ、裁判員裁判における量刑判断では、市民感覚に適合する程度の刑を科することが期待されています。これまでの「玄人の相場」で判断するようでは裁判員制度の意味がありません。幸いにも、実際の裁判員裁判では、裁判員たちは、弁護人と検察官のプレゼンテーションを重視して判断しているようです。
では、実際にはどのような量刑判断が下されているのでしょうか。市民感覚を裁判に反映することが、刑の重罰化を招くのではないかということは、制度実施前からある程度は予想されていました。実際に、8月3日の東京地裁の裁判員裁判では、懲役16年の求刑に対して、「玄人の相場」よりもやや重い、懲役15年の判決を示しました。また、9月2日の青森の事件を見ると、性犯罪被害に対しては、法律家が考えるより重く処罰すべきだというのが市民感覚のようです。市民感覚を裁判に活かすならば、もちろん素朴な処罰感情は軽視できません。
ですが、処罰感情による判断はともすれば、心情的・情緒的な判断になりがちです。刑罰の目的は、応報、すなわち同程度の害を与えて報復することだけではなく、犯罪者をいかに更生させるかということにもあります。そうだとすれば、たとえば「懲役15年」という刑が執行されたときに、受刑者がどのような施設でどのような生活を送るのか、またそれによってどこまで再犯が防止できているのか(特別予防)等、刑事手続き上の処遇やその効果をふまえて、裁判員たちが量刑を判断できるような配慮が、是非とも必要です。
控訴審がどうなるのかも気になります。8月3日の東京地裁の裁判員裁判で示された懲役15年の判決に対して、被告弁護人はこれを不服として控訴しています。裁判員裁判が行われるのは第1審だけで、控訴審で裁判を行うのは職業裁判官だけです。そこでもし、控訴審が従来のような水準で1審判決を破棄してしまうと、裁判に市民感覚を活かすことができなくなってしまいます。東京高等裁判所の裁判官らの研究論文によれば、被告人が量刑不当を理由に控訴した際には、明らかに不合理な判断以外は、第1審の判断を尊重する方向で審査する考えのようです。妥当な方向でしょう。仮に控訴審で破棄するにしても、従来の多くの破棄判決のように、高裁自らが判断する方式(破棄自判)ではなく、第1審に差し戻したうえで、裁判員を加えてあらためて判断し直す方式(破棄差戻し)を原則とすべきです。
守秘義務を見直して国民の理解を
評議の経過や評議における裁判員の意見を公表すると、罰則が科せられます。率直な意見を裁判員に言ってもらうために、裁判員法は、評議の経過などに守秘義務を課したのです。ところが、8月10日のさいたま地裁判決後に行われた担当裁判員の記者会見において、記者の質問に対するある回答が守秘義務違反になるおそれがあることを、裁判所の職員に指摘され、一人の裁判員が自分の意見を発言することを控えてしまいました。
守秘義務は、裁判員が「墓場まで秘密をもっていく」ことを求めるもので、その心理的負担は非常に重いものがあります。また、裁判員制度を本当に国民に浸透させるには、評議で行われた真摯(しんし)なやりとりを公にして、国民が納得のいくまで議論すべきです。守秘義務は見直す必要があります。