臨床への応用目前のES細胞
ES細胞(Embryonic Stem Cell 胚性幹細胞)とは、受精胚に由来する万能性、つまり全身のありとあらゆる種類の細胞に変化し得る能力を有した細胞で、万能細胞とも呼ばれる。アメリカのバイオテクノロジー企業であるジェロン社は、ヒトES細胞から作製(分化誘導)した神経細胞を脊髄損傷患者に移植する臨床研究の実施について、2009年1月にアメリカのFDA(食品医薬品局 日本の厚生労働省に相当)の認可を取得し、09年内に開始される見込みである。人類が月に到達(1969年)して40年、人類はES細胞の臨床応用を開始するという歴史的な1ページを開いた。ES細胞の臨床応用は既に数年前から申請していたものであったが、ようやく認可された。2009年1月は、アメリカでは共和党政権から民主党政権に移行した月であり、偶然の一致とは言い難いものがある。事実、共和党ブッシュ政権下ではES細胞研究への連邦政府予算の支出を認めなかったが、同年3月、オバマ大統領はES細胞研究への同予算支出を認可し、今後アメリカのES細胞研究はますます盛んになることが確実である。
日本にはヒトES細胞の基礎研究にかかわる文部科学省の方針として「ヒトES細胞指針(ES指針)」が存在する。しかし、ヒトES細胞の臨床研究を開始するに当たっては、厚労省による法令または指針などの方針が必要となるが、まだ示されていない。厚労省が早急に方針を決めるよう、政策決定に期待したい。
移植という医療技術の歴史
歴史上、最も早く実施された移植医療は、輸血である。その後、臓器移植(角膜移植、腎移植、肝移植)や細胞移植(骨髄移植、臍帯血<さいたいけつ>移植)などが定着したが、これらに共通することは組織や細胞に試験管の中で人工的に細胞を育成する培養操作を加えていないという点である。培養操作を加えた細胞の移植として最も定着している医療は、体外受精による不妊治療である。これは体外で受精させた細胞(受精卵)に短期間(多くの場合2週間以内)の培養操作を行い、子宮に着床させる治療法である。世界で最初に成功した頃には、「試験管ベビー」と呼ばれていたが、今では日本でも子供の50~60人に1人は体外受精で生まれている。
最近では成人体内で細胞の新陳代謝を担っている体性幹細胞に短期間の培養操作を加え、これを使用する臨床研究も盛んになっている。例えば、角膜のもとになる細胞を培養して角膜を作製し、これを移植する治療。あるいは間葉系幹細胞と呼ばれる細胞から、骨、軟骨、心筋などを作製(分化誘導)して、これを移植する治療などの研究が盛んに進められている。
培養操作を行うことで細胞に傷がつく、すなわち遺伝子に変異が蓄積する可能性が生じる。ES細胞は比較的傷がつきにくい細胞と考えられており、傷がついたとしても修復する能力が高いものの、将来的に傷がつかないということはない。重要なことは、傷がついた細胞を移植すると体内でがん細胞に変化する可能性が危惧されることである。これがヒトES細胞の臨床応用を遅らせている最大の原因である。
すなわち、長期培養細胞あるいはそこから分化誘導した細胞を臨床に応用するということには、従来の細胞移植(未培養または短期培養細胞の移植)とは次元の異なる細胞の品質管理が必要となる。
iPS細胞とES細胞
iPS細胞(induced Pluripotent Stem Cell)とは、身体を構成する分化した細胞である体細胞に、特定の4種類の分子(転写因子という遺伝子発現に関与している分子)を、人工的に高発現(遺伝子情報がたんぱく質として高い効率で表現されること)させることで、ES細胞と同様の細胞に変化させた細胞のことで、人工多能性幹細胞とも呼ばれる。ES細胞のように受精胚を犠牲にして作製する必要がないので、ES細胞の代替細胞として大きな期待を集めている。しかし4種類の分子を人工的に高発現させるために最初に用いられた方法は、外来遺伝子、すなわち本来はその細胞が持っていなかった遺伝子を細胞の中に残す方法であることから、ある意味で細胞に傷をつける方法であったため、その安全性が危惧された。その後、この点の改善を目指した研究が進み、外来遺伝子を細胞内に残さない方法がほぼ確立されたと言っても過言ではない。
では、外来遺伝子を細胞内に残さない方法で樹立されたiPS細胞は安全、つまり移植してもがんにならないかと言えば、「NO」である。何故なら、体細胞がES細胞と同様な細胞に変化するメカニズム、すなわち変化する過程で何が起こっているのかが、ほとんど解明されていないからである。
(後編に続く)
FDA
Food and Drug Administration
Department of Health and Human Services(厚生省)の組織の一つで、品添加物の検査や取り締まり、医薬品の認可などを行う。