iPS細胞の安全性を求めて
そもそも、胚細胞を試験管の中で培養し続けることで樹立されるES細胞株(不死化細胞)を、正常な細胞と言えるかどうかの結論も出ていない。それが故に、アメリカでのヒトES細胞を用いた臨床応用研究の認可にも長い年月を要したのである。そして、認可された臨床研究も、まずは非常に少ない細胞数の移植から始めるという、治療効果よりもがん形成の危険性をチェックすることに重点をおいたものなのである。つまりは、iPS細胞樹立技術を用いてES細胞とまったく等価な細胞を樹立できたとしても、それをもって安全な細胞と言える状況にはまだないのである。
では、今後どのような研究が必要とされるのか。まずはES細胞に関して、もとになった胚細胞と、これを一定期間培養して樹立されたES細胞とを比較して、遺伝子レベルで違いがないかどうかを検討することが重要である。ホールゲノムシークエンス(whole-genome sequence 一人分の全ゲノムの遺伝子配列を解析すること)は、いまだに多くの時間と費用を要するが、近い将来には1000ドルシークエンス(約10万円でホールゲノムシークエンスを実施こと)が可能になると予想されている。
もとになった胚細胞とそれに由来するES細胞、もとになった体細胞とそれに由来するiPS細胞、こうした細胞間で遺伝子レベルに変化はないのか否かの検討が必要と思われる。結果として、変化はあったとしても、それが細胞のがん化に深くかかわるような変化でなければ応用への道が開きやすくなる。道を開くための科学的な根拠になる。
また、実際の応用を考えた場合には、もとになったES細胞やiPS細胞が安全な細胞であったというだけでは不十分である。ES細胞やiPS細胞を用いて、目的の細胞を作製(分化誘導)し、これを臨床に応用することになるわけであるが、この最終的に使用する細胞の安全性こそが重要なのである。
安全性には様々な項目があるが、「がん源性」さえクリアできれば他はそれほど問題ではない。がん源性がない細胞の候補は2種類ある。()細胞増殖(細胞分裂)をしない段階まで分化した細胞。(2)細胞増殖能を保有しているが、移植後にがんになることはないことが確認できた細胞。
(1)に属するとされるのが神経細胞であり、史上初となるヒトES細胞由来細胞が臨床研究がアメリカで実施される。また、既に細胞核(細胞分裂の中心となる細胞内器官)を失った赤血球や血小板などは、がん源性がないことが最も明確な細胞である。(2)に相当する細胞を臨床応用することには、(1)よりもかなり高いハードルがあるが、必ずや解決できるものと思われる。
iPS細胞が切りひらく疾患研究革命
iPS細胞樹立技術は、再生医療への応用以外でも大きな期待を集めている。それは、各種疾患の原因究明研究、発症機構解明研究、治療薬開発研究の分野である。例えば、脳神経変性疾患の場合、患者の脳神経細胞を採取して研究材料とすることは不可能であるが、患者の体細胞(皮膚の細胞等)からiPS細胞を樹立し、そのiPS細胞から脳神経細胞を作製(分化誘導)すれば、患者の脳神経細胞で起こっている現象を試験管内で再現できる可能性があり、疾患の原因究明や治療薬開発に利用することが可能となる。様々な疾患に関して、同様な手法を用いて研究をすることが可能であり、iPS細胞樹立技術は疾患研究分野にも革命的な方法論を提供している。薬の多くは肝臓で代謝されるため、副作用として肝臓に障害をもたらす薬が多い。そこで、なるべくたくさんの人間に由来する肝臓細胞を用いて毒性試験等を実施することが重要である。多くの人間に由来するiPS細胞を樹立し、iPS細胞から肝臓細胞を大量に入手できる技術が開発されれば、創薬研究分野にも大きな福音となる。また、心臓毒性も同様にiPS細胞由来の心筋細胞を創薬研究に応用することが可能である。
細胞を自由自在に操る時代の到来
20世紀の終盤には、PCR(合成酵素連鎖反応)技術や遺伝子欠損マウス作製技術(どちらの技術も貢献者にノーベル賞が授与)などに代表されるような、遺伝子工学技術が次々と開発され、医学生物学研究は「遺伝子を自由自在に操る時代」へと突入した。21世紀に入り、iPS細胞作製技術が日本発で開発され、これに触発される形で様々な細胞工学技術が開発されている。今や、医学生物学研究は「細胞を自由自在に操る時代」へ突入したと言っても過言ではない。
人類の英知をもってすれば、目的とする細胞・組織・臓器を人工的に作製できる分野は急速に拡大するものと期待される。そして、移植用の細胞・組織・臓器の不足がもたらしている悲劇が、一日も早く根絶される日の到来を願いたい。
PCR
(polymerase chain reaction)
微量のDNA試料から、ある特定領域のDNA配列コピーを短時間のうちに大量に作り出す技術。
遺伝子欠損マウス
ノックアウトマウス(knockout mouse)ともいい、ある特定の遺伝子を欠損もしくは変異させて、機能しないようにしたマウス。