ボスニアの智将の「日本化」宣言
サッカーの日本代表は、4年ごとのワールドカップを軸に回っている。初出場を果たした1998年フランス大会以降、日本代表チームは4年ごとにひとりの監督の手にゆだねられてきた。98~2002年はフィリップ・トルシエ(フランス)、02~06年はジーコ(ブラジル)。そして06年から2010年のワールドカップ南アフリカ大会への指揮を任されたのが、ボスニア生まれでオーストリア国籍をもつ経験豊富なイビチャ・オシムだった。「日本のサッカーを日本化する」
就任に当たって、オシムはそう宣言した。
どこのまねでもなく、日本人に最も適したサッカー、日本人の長所を最大限に生かしたサッカーで、世界の強豪と伍して戦う力をつけたいという考えだった。03年からJリーグのジェフユナイテッド千葉で指揮をとり、日本のサッカーを知り尽くした智将ならではの目標だった。
1年目には、Jリーグに所属する選手だけで7試合をこなした。そして2年目の07年になると、そこに徐々にヨーロッパのクラブで活躍する選手たちを入れ、チームの基礎を固めた。
南アフリカへの道
そして08年、早くもワールドカップ予選が始まる。アジアに与えられた出場枠は4.5。アジア予選で4位までに入れば出場権を得ることができ、5位になってもオセアニアとのプレーオフに出場権獲得をかけることができる。アジア予選は早くも07年の10月8日と28日に行われた「1次予選」でスタートを切っている。アジア予選のエントリーは新記録の43カ国。このなかから日本を含むシードの5チームを除く38カ国が1次予選に出場、11月の2次予選を経て15チームに絞られる。これにシードの5チームを加えた20チームが、5組に分かれて3次予選を戦う。各組4チームのうち上位2チームが「最終予選」に当たる4次予選に進む。4次予選は5チームずつ2組。その上位2チームに入れば出場決定、3位になると、アジアの5位を決定するプレーオフに回ることになる。
3次予選は08年2月にスタートし、9月までに各チーム6試合を消化する。そして息をつくひまもなく、10月には4次予選に突入する。4次予選は「10節」あるが、1チームの試合数は8。すなわち、3次予選から出場する日本は、2年間で少なくとも14試合、多ければ18試合の予選を戦い、その末に2010年ワールドカップの出場権を得るということになる。
アジアカップで見えた「日本化」
それでは、オシムが「日本化」を進めてきた日本代表は、どのように進歩したのだろうか。進歩が明確になったのは、07年7月に東南アジア4カ国の共同開催で行われたAFCアジアカップ2007だった。この大会で、日本はそれまでの試合とは大きく違うサッカーをした。ヨーロッパでプレーするMF中村俊輔(セルティック)とFW高原直泰(フランクフルト)が加わったメンバーは、この年3月の親善試合以来ほぼ同じ。しかし試合内容には大きな変化があった。
パスの精度が格段に上がり、そのパスで試合を支配しながらチャンスをうかがうというサッカーだ。オシム監督就任以降の試合のデータを比較して見ると、傾向の違いが明確になる。06年の7試合ではパスの成功率が80%を超すことはなかった。それは、中村俊輔らが加わった07年のアジアカップ前の親善試合でも同じだった。ところがアジアカップでは成功率が急激にはね上がり、6試合を通算すると87.4%という高率になったのだ
「パスを回しているだけで突破の意思が足りない」という批判もあった。しかしこの高率の背景には、動きの質、互いのタイミングなど、目には見えにくい部分が大幅に改善されたという事実がある。
アジアカップはオシム監督の就任後、初めて長期間チームがいっしょに過ごす機会だった。7月1日に集合してから29日に解散するまで約1カ月間、日本代表はほとんど休みなく練習と試合を繰り返した。その機会に、オシム監督はしっかりとパスをつなぐための細かなポイントをたたき込んだのだ。
課題はパスの精度の維持と突破力
正確なパスワークは日本が目指すサッカーのベースだ。その上にチームとしてリスクを冒すタイミングの意思統一をはかり、突破力をもったストライカーを加えていけば、バランスの取れた本当に強いチームができる。もっとも、07年8月にカメルーンと対戦した親善試合のパス成功率は74.2%に落ちた。フィジカル能力の優れた相手に体を寄せられ、余裕を失ったためだ。課題である突破力を上げるだけでなく、こうした相手でもパスの精度を落とさない努力をしていかないと、アジア予選は突破しても、ワールドカップの舞台でまた失望を味わう結果となる。
アジア各国のレベルが上がり、2010年を目指すワールドカップ予選は前回よりはるかに厳しくなると予想される。日本代表が進歩を止めることは許されない。