岡田武史という男
1956年8月25日、大阪府出身。岡田武史は日本サッカーの貴重な宝のひとりと言っていい人材だ。身体能力に恵まれていたわけでもなく、飛び抜けた技術があったわけでもなかったのに日本A代表国際マッチ21試合出場という堂々たる記録を残したのは、卓越した「サッカー頭脳」と、とことん考えた末決断したことを石にしがみついてもやり抜くという強い意志のおかげだった。90年に34歳で現役を引退、指導者になってからも、その2つが岡田の大きな「武器」となった。ジョークで周囲の人びとや選手を笑わせる一方、これと決めたことを絶対に譲らず、妥協もしない強さが、彼を日本人随一の監督とした。41歳で日本代表監督に就任して、日本を初めてのワールドカップ出場に導き(97年)、コンサドーレ札幌をJ2からJ1に昇格させ(2000年)、横浜F・マリノスにJリーグ連覇をもたらす(03、04年)という実績は、他の追随を許さない。
しかし「岡田監督のサッカーとは何か」と問われると、実にさまざまな意見が出てくる。「守備的」という評価もある。「結果を恐れずに攻撃を仕掛けるサッカー」という人もいる。「とにかく結果重視」と、その正反対のことを言う人もいる。
そのどれも正しく、そして、そのどの意見も不十分だと、私は思う。
岡田監督の本質はロマンチストだ。サッカーという競技の美しさを信じ、誰が見ても心躍るような試合をしたいと考えている。しかしその一方で、プロとしてとにかく勝つことを求められていることも、彼は承知している。そして、往々にして相反するその二者を懸命に追い続けてきたのが、岡田監督のこれまでのサッカー人生だったように思う。
より日本化する日本サッカー
2006年のワールドカップ後から07年10月まで日本代表を率いたイビチャ・オシム前監督は、「日本的なサッカー」を標榜(ひょうぼう)した。体格やフィジカルな能力など、日本人が劣るポイントを嘆いても仕方がない。また、それを補うために選手選考の基準を背の高さに置くことはばかげている。大きさで勝負しようとしても、相手も同じかそれ以上の能力を持ち合わせているからだ。だから日本人の特徴を生かしたプレーを徹底して追求しよう――。それがオシム前監督の考えだった。「誰が監督を務めても、『日本人に適したサッカーの追求』というテーマは変わらないと思う」と、07年12月、監督就任の記者会見で岡田監督は話した。それは、大命題においてオシム前監督と変わることはないという考えの表明だった。
1月にトレーニングが始まると、「接近・展開・連続」という表現もした。相手に余裕を与えない厳しいプレス、奪ったボールをすばやいパスで展開し、ゴールに迫る。そして90分間そうした攻守を繰り返す…。そんなイメージだろうか。08年1月26日に東京・国立競技場でチリと対戦した親善試合では、シーズン初戦ということもあって選手たちのコンディションが万全ではなく、その全貌は見られなかったが、試合の立ち上がりには、連動してのプレス、ワンタッチのショートパスを多用しての攻撃など、片鱗が見えた。
奇才・大木の抜擢
これからの「岡田サッカー」を考えるとき、重要な要素になると見られるのが、大木武コーチの起用だ。岡田監督は、原則として選手だけでなく指導スタッフもオシム前監督時代のメンバーを引き継いだ。ただひとりだけ新しいコーチとして呼んだのが、昨年までヴァンフォーレ甲府の監督を務めていた大木コーチだった。J2のクラブと比較しても経営規模が小さく、有名外国人選手や日本代表クラスの選手などもてない甲府だったが、他には例を見ないショートパス多用のサッカーで2シーズンにわたってJ1で大暴れし、感銘を与えた。そのサッカーを創り上げた大木コーチを呼んだところに、岡田監督の「ロマンチスト」の一面が表れている。「岡田サッカー」の正体
岡田監督は、横浜FM時代には、負傷者続出のなかで守備を固めてとにかく大きく前線にけって攻めようというサッカーも見せた。しかしそれは「必要ならこんなこともできる」ということを示したものにすぎない。「岡田サッカー」の本質ではない。3月のバーレーン戦までは、「岡田色」はあまり色濃くは出ないかもしれない。しかし、5月に予定されているキリンカップから、6月のワールドカップ・アジア3次予選4試合にかけての時期に、何か新しいものができてくるのではないかと思う。()それがどんなサッカーになるのか、大いに期待したい。