記録づくめのデビュー
日本の男子テニスに、待ちに待ったスターが誕生した。錦織圭。2008年2月の男子世界ツアー大会、アメリカのデルレービーチ国際で、日本男子として1992年韓国オープンの松岡修造以来、史上2人目の優勝を遂げた。それも、2008年のツアー大会優勝者の中で最年少の18歳という若さ。予選からツアー優勝を遂げたのは、1990年以来19年間で約1000大会ある中で、わずか30人目という世界的に見ても記録ずくめの新星誕生だった。その後も、2008年8月の全米では、3回戦で当時世界4位のダビド・フェレール(スペイン)をフルセットで下し、日本男子71年ぶりの16強入りを果たし、ツアー優勝が決してフロックではないことを証明して見せた。リアル・テニスの王子様
飛び跳ねて打つショットが目立つため、アメリカのテレビ局がつけたニックネームが「エア・ケイ」。バスケットボールのNBAで活躍したスーパースター、マイケル・ジョーダンの愛称「エア・ジョーダン」をもじったものだ。その錦織自身の愛称が、いつのまにかジャンプして打つストロークを「エア・ケイ」と呼ぶようになり、錦織の必殺技として定着した。必殺技を駆使して、天才少年が世界で活躍する。子どもたちを魅了した「テニスの王子様」ではないが、まるで漫画の世界である。そこには、記録や成績だけでは計り知れない錦織のプレーのおもしろさがある。第二次世界大戦前から現在まで、日本のテニス界は多くの選手を輩出してきた。松岡のように、現在のところ、錦織以上の成績を残した選手も多い。しかし、錦織のようにプレー自体で観客を魅了した選手は少なかったに違いない。牛若丸の八艘(はっそう)飛びのように、コート上をヒラリヒラリと駆け抜ける。そして、豪快なフォアハンドを軸に、いとも簡単に自分のプレースタイルを組み立てる。文字にすれば簡単だが、テニスとは相手のプレースタイルを壊すところから始まるスポーツだ。しかし、どのような相手と対戦しても、自然に錦織自身のプレースタイルに導いてしまうのだから、それは才能としか言いようがない。そして、突然、放たれるドロップショットなど、思いがけないプレーが彩りを添える。
覚悟が支えたアメリカ留学
錦織は13歳で、日本テニス協会の盛田正明会長が私財を投じて創設した盛田正明テニス基金の援助を受けアメリカに渡った。マリア・シャラポワ(ロシア)やアンドレ・アガシ(アメリカ)ら世界のトッププロを生み出したIMGアカデミーに送られ、エリート選手養成のための指導を徹底的にたたき込まれた。最初はまったく英語がしゃべれず、疎外感を味わった。日本への思いが募ったが、テニスに打ち込むことで振り払った。当時のことを錦織は「テニスをやるしか道はなかった」と回想する。今でも、日本食など日本への思いは深い。しかし、「テニスをするには最高の環境だから」と自らに言い聞かせ、大げさに言えばテニス以外のことをすべて犠牲にする覚悟を決めている。
実はあまり知られていないのだが、錦織がアメリカに渡った時、ほかに2人の日本男子が一緒だった。錦織を含めた3人は良きライバルであるとともに、ジュニアの日本代表に選ばれ、外国勢相手にともに戦ったこともある仲だ。錦織も「彼らがいたから、最初は続けることができた」と話す。しかし、錦織以外の2人は、アメリカの水に合わなかった。錦織も、決してアメリカに溶け込んだわけではない。ちょっとした覚悟の違いが、彼らの運命を分けた。
究極の個人競技
テニスというのは、究極の個人競技だと言える。ツアーは世界中に広がり、毎週はじき出される世界ランキングで、出られる大会が決まる。どこの国の選手か、その国の代表かなどは無関係だ。錦織圭という個人の力だけがすべてなのだ。その中で生きていくためには、まず人間として自立していないと、プレーをする前に、雑多なことでストレスを感じつぶれてしまう。それが、連帯感を重視し、寄らば大樹の陰のような日本の社会では、なかなか選手が育ちにくい理由ではないだろうか。その土壌から、錦織圭というたぐいまれなる選手が生まれたことは、日本の将来にも大きな光明を与えた。錦織の成功の原因は、すべてアメリカにあるかのようなストーリーができあがっているが、忘れないでほしいのは、錦織は日本で生まれ、日本で育った日本人だということだ。両親は今でも島根の松江に居を構え、178cm、70kgという錦織の体格も決して飛び抜けているわけではない。原石のような才能は、確かに世界的に見てもまれである。しかし、それを発掘し、磨き上げる場を与えたのは、日本のテニス界だった。
世界のテニス界で、少しでも上に行こうとすれば、才能だけではどうにもならないことがある。環境、資金、そして運。それ以外にも多くのことが必要であり、それがうまくかみ合った時に、初めて世界のトップ10にまで到達できる 。その方法は誰にも分からない。錦織圭でも、この先、何度も低迷し挫折を味わうことは容易に想像できる。しかし、彼には、それを乗り越え、少しでも世界のトップに近づく大きな魅力があるのだ。
IMGアカデミー
IMG academies
アメリカのフロリダ州にある、世界規模のスポーツ選手のマネージメント企業IMG(International Management Group)による、複合型のプロスポーツ選手養成施設。グループ内のニック・ボロテリー・テニスアカデミーは、マリア・シャラポワなど、テニス界のトッププロ選手を多数輩出したことで知られる。