辛亥(しんがい)革命で清朝を倒した中国の革命家・孫文(1866-1925年)を、生涯支え続けた宮崎滔天(みやざき とうてん 1871-1922年)という日本人がいた。「右翼」と誤解されることも多い彼だが、実は彼の理想は、「世界的人間」という言葉に込められている。『謀叛の児 宮崎滔天の「世界革命」』(河出書房新社、2017年4月刊)の著者が現代社会にも通じる滔天の思いを綴る。
閉塞する日本を飛び出し中国へ
今から100年以上前の1911年、中国で革命が勃発。300年近く続いて来た清朝が倒れ、「中華民国」の建国が宣言された。辛亥革命である。革命を指導した孫文は今も、中国・台湾で「国父」と呼ばれている。ところでこの革命に至るまで、そしてその後も、孫文とその仲間を支え続けた日本人がいたことをご存じだろうか。宮崎滔天という男である。南京にある中国近代史遺址博物館(かつての中華民国総統府)には、孫文と滔天が並んで歩く銅像が建っている。銅像のタイトルは「赤誠友誼」。偽りのない友情という意味だ。中国の人々は今も、国境を超えた彼らの友情を忘れてはいない。
宮崎滔天、本名・寅蔵は1871(明治4)年、熊本の荒尾村(今の荒尾市)に、宮崎長蔵・佐喜のもとに11人兄弟 の末子として生まれた。長兄・八郎は若者たちが作った自由民権運動グループ「熊本民権党」のリーダーだったが、1877(明治10)年の西南戦争のとき、仲間たちと共に西郷軍に投じて政府軍の銃弾に倒れた。 2年後、父・長蔵も失意のうちに死去。「宮崎家の者は今後、官の飯を食ってはならぬ」というのが、長蔵の“遺言”だった。以来、「自由民権」「反政府」は、残された宮崎兄弟の絶対的な信念となった。
だが明治20年代(1887年~)に入ると、自由民権運動は衰退し、強大な明治国家体制が確立する。20歳そこそこの滔天と兄・弥蔵が中国に目を向けたのはこの頃だ。彼らは、閉塞する日本を飛び出して中国の革命に参加しようと考えた。中国は当時、疲弊した専制王朝である清朝の支配の下にあり、列強の侵略にさらされていた。そうしたなか、知識人たちは祖国の変革を模索し始めていた。中国に革命が近づいている、と滔天たちは考えた。
そこから、滔天の波乱の生涯が始まる。中国革命の指導者を探して上海や香港を訪ね、孫文と運命的な出会いを果たし、その理想に感動して、彼を助けていくことを決意する(兄・弥蔵はその直前に亡くなった)。日本の活動家や政治家たちの協力も受けながら広東省で蜂起するという孫文の計画に協力するが、政治家の裏切りに遭って挫折。自責の念から彼は、なんと浪曲師に転身する。だが日露戦争(1904-05年)以降、日本に留学する中国の若者が増え、彼らの中に革命の気運が高まってくると、革命支援に復帰。縁の下の力もちとして留学生たちを支えるようになる。以後、1911年の辛亥革命に至るまで、彼らの相談に乗り、協力者を紹介し、日本社会にその支持を訴えた。1902年、波乱万丈の半生を綴った著『三十三年の夢』は、刊行されるやすぐに中国で翻訳され、孫文の思想が中国国内に広がるきっかけとなった。辛亥革命が始まったとき、滔天は40歳。だが長年のむちゃが祟って体を壊していた彼は、その直後から病に伏せることが多くなり、1922(大正11)年、51歳 でこの世を去った。
「世界的人間」という理想
彼がなぜ、そこまで中国革命にのめり込んだのか、どのような思想を抱いて行動していたのかについては、ほとんど知られていない。多くの場合、「右翼」「アジア主義者」「夢想的ロマンチスト」と理解されているようだ。
だがこれは大きな誤解である。まず彼は右翼ではない。国家主義、侵略主義、日本中心主義、天皇崇拝といった要素がなければ右翼とは呼べないだろうが、彼にはそのどれも当てはまらない。「日本を中心としたアジアの団結」を訴えるアジア主義者でもない。そして、ロマンチストには違いないが、それだけで片づけるにはあまりに鋭い知性と思索がある。
滔天は、自らの信条を次のように語っている。「余は人類同胞の義を信ぜり、ゆえに弱肉強食の現状を忌めり、余は世界一家の説を奉ぜり、ゆえに現今の国家的競争を憎めり」(『三十三年の夢』)。当時の世界に横行していた帝国主義を批判する一文だ。彼は加えて、近代化の進展によって当時、世界的に起きていた格差の拡大をも批判し、こうした世界を丸ごとひっくり返して、世界中の人々の「人権の大本」を回復すべきだと考えた。彼はそれを「世界革命」と呼ぶ。孫文を支えて中国を革命することこそが、世界革命の第一歩になる。中国革命支援の背景には、こうした思想があった。
こうした気宇壮大な発想の根底には彼の「世界的人間」という考え方があった。世界的人間とは何か。「誤って非国民をもって目さるるとも、人類の一員として理想に生きたいのが私本来の本願」(「銷夏漫録」)ということだ。日本人である前に人間であること。自分の行うべきことを、世界人類の一人として考えること、である。つまり宮崎滔天は、コスモポリタンとでも言うべき人だった。これは、欧米に学んで日本を強国にしようという当時の文明開化の発想とは似て非なるものだ。
ただし彼は、こうした考え方を最初から持っていたわけではない。異国の師、異民族の友との一つ一つの出会いが、彼の考えを深めていった。
「狂乞食」イサクから受けた影響
その最初は少年時代。東京に出て、教育家であり啓蒙思想家の中村正直(1832-91年)が設立した私塾同人社に通っていたとき、フィッシャーという宣教師に出会ったことである。偶然さまよい込んだ教会の礼拝で、聖書の言葉に衝撃を受けた滔天は、フィッシャーの下でキリスト教の教義を学び始めた。神の前では誰もが一人であり、ナニ人でもない。民族や国家ではなく普遍的な人間の救済を求めるキリスト教は、彼に、自由民権運動の中にもあった天皇崇拝やナショナリズムを相対化する視点を与えてくれた。
だが数年も経つと、キリスト教の教義体系に疑問を抱き始める。そのとき、今度は長崎でイサク・アブラハムというスウェーデン出身の老人に出会う。滔天18歳の時だ。
イサクは、国家や宗教、近代文明を否定し、自然生活を実践するヒッピー的なアナキストであり、世界放浪の旅の途中に長崎で滔天の前に現れた。町はずれのあばら家に住み、ぼろぼろの姿をした彼を、滔天は「狂乞食」と表現する。あなたはどこの国の出身かと尋ねた滔天に、イサクはこう答えたという(以下、「亡友録」より筆者要約)。
《私はそれを知らない。生まれた瞬間を記憶していないからだ。両親は「お前はスウェーデン人だ」と言っていたが、彼らが嘘をついていないという確証はない。いや、それどころか両親と称する男女が、本当に私の親かどうかも分からない。確実なのは、私が人類の子としてこの世界に生まれたということだけだ。だから、私の祖国とは世界であり、私の父母兄弟とは人類である。》
明治20年代初めの熊本の若者にとって、こうしたものの見方は衝撃的だったに違いない。
イサクはまた、国家とは戦争という名の殺人を奨励する存在だと批判し、近代文明の本家である欧州で労働者たちがどれほど悲惨な暮らしをしているかを滔天に教えた。イサクとの対話は数カ月後、彼が日本政府に強制退去を命じられたことで断ち切られるが、その間に滔天が受けた影響は大きかった。あれほど熱心に学んでいたキリスト教もやめてしまったほどだ。
当時、滔天の郷里である荒尾村をはじめ、全国の農村が困窮の中にあった。