元横綱日馬富士の暴行事件に端を発して、2017年末からの大相撲協会を取り巻く騒動はとどまるところを知らない。作家の星野智幸さんは、「相撲ファン」で知られ、これまでも外国人力士に対しての差別的なヤジや「日本人力士ファースト」ともいえる観客の態度に懸念を表明してきた。相撲エッセイをまとめた近刊『のこった もう、相撲ファンを引退しない』を発表した星野さんに、この“日馬富士暴行問題”について、大相撲の行く末について寄稿していただいた。
薄れるかに見えた「日本力士ファースト」の空気
2017年納めの場所である九州場所の最中に、私の相撲エッセイ集『のこった もう、相撲ファンを引退しない』(ころから)を刊行するにあたって、じつは少々タイミングを逸したのではないかと思っていた。
このエッセイ集は「大相撲と愛国」をテーマとした本であり、大相撲をめぐる環境に「日本人ファースト」のムードが高まり、外国人力士への差別が蔓延しつつある状況を批判している。筋金入りの相撲ファンである私が、国技館に足を運びながら感じたことだ。2016年に「日本人優勝」「日本人横綱誕生」を期待するキャンペーンが相撲協会とNHKの主導で行われ、ほぼすべてのメディアがそれに乗って大騒ぎしたわけだが、常に幕内の3分の1近くを外国の力士が占める時代に、感じの悪いことおびただしかった。アメリカのメジャーリーグ野球で、アメリカ人ファーストの応援や報道が大勢を占めたら、実力でその地位を勝ち取っている日本の選手がどんな思いをするかを考えてみれば、その異様さはわかるはずである。だが、相撲での日本人中心主義に異を唱える人は、非常に少数だった。
しかし、「日本人」大関の琴奨菊が優勝し、豪栄道、稀勢の里と続き、稀勢の里が横綱に昇進し、さらに2度目の優勝で怪我を負って以後休場が続くと、「日本人ファースト」の空気は薄くなっていった。なんとなくブームに便乗していた客が減って、相撲を日常的に見るファン(特に女性の相撲ファン)が増えていった。
象徴的だったのが、2017年の秋場所、日馬富士がただ一人出場した横綱として大逆転優勝を果たしたときである。千秋楽、同じく優勝争いをしていた「日本人」大関である豪栄道に、手拍子でコールが沸いた。大相撲ブームとともに発生したコールという応援の仕方は、日本人力士を応援するときにのみ起こるものだったのだが、このときはすぐに日馬富士コールが起こり、豪栄道コールを打ち消してしまったのだ。秋場所の国技館に3回も足を運んだ私は、日本人力士だから応援する、というような空気が確実に薄れているのを肌で感じ、もう差別の潮目は変わったかな、と思い始めていたのだ。だから、私の本は、出版する前にすでに役割を終えつつあるのかも、と考えたのである。それならそれで、これはかつてあった差別の記録として残しておこう、と。
甘かった。ここ何年もかけて作られた差別の土壌は、何かことが起これば牙をむくまでに強固になっていたのだ。この本は、世に出るなり、日馬富士による貴ノ岩への殴打事件に巻き込まれていく。
暴行事件の処置をめぐる問題
大方の人が感じているとおり、この事件は、日馬富士の暴行問題という側面と、貴乃花親方の行動を源として、何でもありの飛ばし報道合戦と化した側面とが、混ざっていた。さらにその混乱に乗じて、白鵬叩きを始めとするモンゴル力士への差別が猖獗(しょうけつ)を極める事態となっている。だから、問題とその解決を探るためには、それらを一緒くたにせず、丁寧に解きほぐして考える必要がある。
すべてに共通する私の結論は、大相撲はもはや、根本からの近代化をしないかぎり存続できない、ということである。近代化とは、現代日本でどこの組織もが基本に据えている、法治主義(法令遵守)と民主的な運営、情報公開である。
まず、日馬富士の暴行問題については、現代の日本が法治主義に基づく民主社会である以上、格闘競技の選手による器具を使っての暴力は、理由が何であれ、まず警察と司法によって裁かれるべきである。示談等の解決方法も、その過程で探られるべきだ。暴力が始まった時点で止めに入らなかった同席者に責任の一端があることも、疑いえない。この点について、処分内容の是非はともかく、当該の力士ら(日馬富士、白鵬、鶴竜)が処分を受けることも必要であったと思う。相撲界は特別だからという理由で一般社会の法を免れることは、できない。
ただ、明らかになったのは、力士全体の中に、後輩や下位力士への教育には多少の暴力は仕方がないという意識が、今でも共有されているという事実だ。だから一般社会からしたら看過できない暴力でも、力士たちには大した問題に見えなかったのだ。それは力士だけの問題ではなく、むしろ部屋を運営し力士を指導している親方や相撲界全体の文化の問題である。
その点に関して私は、相撲協会がやや末端に責任を押し付けているような印象を持っている。現場にいた力士が処分を受けたのに対し、相撲協会の幹部の大半は、暴行問題での直接の処分を受けてはいないのだ。処分という形ではなく、八角理事長の「自主的な」報酬の返納、および伊勢ケ浜親方の「自主的な」理事辞任に留まっている。これでは、B、C級戦犯だけ罰して、A級戦犯には自分で反省しなさいと言っているようなものではないか。自主的に引退した日馬富士に対し、今後の基準とするために処分を発表したのだから、協会幹部に対しても、理事会で処分を下すという形は必要だったのではないか。(貴乃花親方は正式な処分を受けたが、これは暴行の責任とはまた別個の、協会員としての責務を果たさなかったことによる。貴乃花親方の問題については後ほど論じる。)
ここでわかるのは、相撲協会の規律は時として恣意的に運用されるという事実である。このことは、暴力事件の外の騒動を見ると、よりはっきりする。
恣意的な解釈を許す「品格」という規定
最も問題視せねばならないのは、白鵬が千秋楽に「万歳」をした行為について、「厳重注意」という正式の処分を行ったことである。私は、白鵬のあのときのインタビューでの発言(「日馬富士関と貴ノ岩関を再び土俵に上げてやりたい」)と万歳は、相撲ファンのもやもやとした不安を和らげるための言動だと思っているが、もちろん批判的な人も大勢いることは承知している。おそらく白鵬も、批判覚悟で選んだ行為だろうとは思う。
しかし、正式な処分を発令する論拠が何なのか、ということになると、はっきりしない。新聞報道によると、八角理事長は「横綱の品格に関わる言動ということで厳重注意をした」と述べているが、では何が「横綱の品格」に関わるかは、何の定義もない。つまり、そのときの理事会や審判部や横綱審議委員会の気分で、つまりきわめて恣意的に、何が「品格」に関わるか、が決められるのである。そして処分されるのである。