2019年5月1日、新しい天皇が誕生し元号が改められる。天皇や皇帝一代に元号を一つとすることを一世一元制というが、日本で制度化されたのは明治時代に制定された「一世一元の制」からで、天皇制の歴史からすると新しいものである。それ以前は天皇が在位中に複数回改元することは珍しくなかった。では、明治時代に一世一元の制がなぜ制定されたのだろうか? 元号の歴史をひもとくと共に、今回の改元後の日本の展望などについて、島薗進上智大学大学院教授にインタビューした。
そもそも元号とは
一般的に日本の最初の元号は「大化の改新」(645年~)でおなじみの「大化」と言われています。元号制度は中国に倣ったもので、中国では紀元前2世紀中頃、前漢の武帝の時代に始まったとされます。そのため日本で元号として使われてきたのは、中国の儒教の経典である四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)五経(『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』)から取った漢字2文字からなる言葉が大半で、最近の元号「明治」「大正」「昭和」「平成」もそうです。しかし、奈良時代の一時期には「天平感宝(てんぴょうかんぽう)」など4文字の元号が使われていたこともありました。
前漢時代の中国は皇帝の時代であり、元号は、この世の秩序の神聖さ、正しさを代表する皇帝の良き統治の下に国があることを象徴し、それが長く続くよう祈るという性格を持っていました。日本でも、天皇を中心とする律令制を敷く際、神聖な皇帝の統治という中国の理念に倣って元号が採用されたのです。また改元の理由には地震・火山噴火などの自然災害や大火・流行病といった凶事、珍しい動物が見つかったなどの吉事もありました。改元には、凶事ならばそれを払拭(ふっしょく)する、吉事ならばそれにあやかるといった宗教的意味合いも大きな要素としてあったのです。
元号は、中国や日本以外にも、朝鮮や越南(ベトナム)など中国に影響を受けた東アジアの国で使われていた時期がありました。ちなみに、日本の統治下で日本の元号を使用していた台湾では、戦後の1945年から、中華民国が成立した1912年を元年とする民国紀元の年号が使われています。
一世一元制に影響を与えた水戸学
2019年5月1日には、皇太子が新天皇となり、それに伴い改元が行われることが決まっています。このように天皇が代わることに伴い元号が改められる制度を「一世一元の制」といいます。これは明治になってからの新しい制度です。これには、本居宣長(もとおりのりなが)や平田篤胤(あつたね)らの国学の流れをくむ学問の影響が大きかったとする論があります。この学問の流れをくむ一人である津和野藩藩士の大国隆正が、明治維新後、神祇事務局権判事になったことなどからそう捉えられてきたのです。
しかし私は、徳川御三家の一つである水戸家で生まれた、儒教の流れをくむ学問「水戸学」が大きく関与していると考えます。
水戸家は、御三家の中でも大納言の尾張家や紀伊家とは違い権中納言と格下で、基本的に将軍職には就けませんでした。「天下の副将軍」と呼ばれた水戸光圀(みつくに)も、あくまで「副」でしかなかったのです。地理的に近いことから水戸藩には幕府を守るという重要な役目があり、自藩を格下とした幕府を藩士たちに守らせるためにはそれなり理由付けが必要でした。そこで皇帝の神聖性を強調した中国の明(1368~1644)に倣い、儒教的な名分論によって、天孫降臨の神勅により国の統治を始めた天皇を皇帝同様に神聖化し、さらに日本独自の万世一系である天皇を中心とした国家を守る江戸幕府もまた重要であるとする水戸学が形作られていきます。明は、初めて一世一元を採用したとされています。
幕末の後期水戸学では、天皇を尊ぶ「国体」にのっとり、劣った「夷」である外敵を追い払うという尊皇攘夷の思想が『新論』という書物に結実し、この「尊皇攘夷」のスローガンの下、やがて倒幕運動へと展開していきました。
様々な詔で神権的国体論がより強固に
1867(慶応3)年の大政奉還後、天皇を中心とする祭政教一致国家の体制を作るべく、「王政復古の大号令」を皮切りに、次々と詔(みことのり)が発布されていきます。
68(明治元)年9月8日には明治改元に際し、「一世一元の制」を発しています。同じ天皇の統治が続く限り同じ元号とすることが制度化され、元号が諡号(しごう)、つまり天皇の死後の贈り名ともなって、時代と天皇が一体化したのです。
70(明治3)年には、神道に基づく国民教化政策を推進する指針となる「大教宣布の詔」が発布されます。伝統的な新嘗祭(にいなめさい)などに加えて、新たに元始祭や紀元節祭などが導入され、神聖な皇室祭祀(さいし)によって区切られる時間意識が植え付けられ、国家神道を基礎付けていきます。
更に徴兵制や義務教育制に合わせて、「軍人勅諭」(82年)、「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」(90年)が発布され、天皇と臣民の一体化を推進、神聖な天皇のために全国民が命を捧げて神聖な国家を守る「神権的国体論」が国民に浸透していきました。勅諭や勅語は、軍隊や学校で暗記が義務付けられており、「朕(ちん)ト一心(ひとつこころ)ニナリテ」(軍人勅諭)や「億兆心(おくちょうこころ)ヲ一(いつ)ニシテ」(教育勅語)という言葉が深く胸に刻まれ、同時に元号も天皇を象徴するものとして国民の間でその存在感を増していきました。
その後、日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~05)の勝利によって、神権的国体論はより強固なものとなっていきます。明治天皇は、日本で唯一「大帝」と呼ばれた天皇でした。その多大なる影響は、明治天皇と昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の死後、国民の意向で創建された2人を祭神とする明治神宮の規模からもうかがい知れます。明治天皇は死後、すぐに神となり、やがて明治節*ができます。 *生前の天長節、すなわち天皇誕生日を祝う日
そしてその後、大正、昭和と神権的国体論と天皇崇敬が国民に身体化され、八紘一宇(はっこういちう)を掲げ無謀な戦争に突き進むことになります。八紘一宇とは、神聖な天皇のもとで世界を一つの家にするという意味で、天皇をいただく日本の世界統一を幻想させる用語でもあります。
戦後は元号廃止論も
盤石と思われた天皇制と一体の一世一元の制に危機が訪れたのは、アジア太平洋戦争の敗戦でした。
アメリカ人による連合国軍総司令部(GHQ)は、「国体」の優越を誇り、天皇崇拝で攻撃的となった日本の超国家主義が復活しない体制にすべきだと考えていました。国内でも、大日本帝国憲法下で不敬罪や治安維持法などに問われ弾圧されてきた左翼や宗教勢力、自由主義者が、天皇の戦争責任や思想・良心・信教の自由を主張するようになります。
保守勢力でも、1946年には、「憲政の神」と呼ばれた衆議院議員(当時)尾崎行雄は改元の意見書を出しています。同じ時期、大蔵大臣だった石橋湛山(たんざん)は元号廃止を訴えました。
元号に関する懇親会
「元号選定手続きについて」
候補名を考案する際の留意点
ア 国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。
イ 漢字2字であること。
ウ 書きやすいこと。
エ 読みやすいこと。
オ これまでに元号叉はおくり名として用いられたものでないこと。
カ 俗用されているものでないこと。