【香山リカ×森岡正博「反出生主義」対談(前編)~私たちは「生まれてこないほうがよかった」のだろうか?】からの続き。
反出生主義は哲学的論理の一つであり、善し悪しで評価できるものではありません。ただし、「すべての人が存在しない世界こそあるべき姿」という考えを乗り越えようとするならば、私たちはどのような論理で対抗し得るでしょうか。
人の役に立つ人生でなければならないのか
森岡正博(以下「森岡」) 前編では、反出生主義に対してどちらかというと批判的な観点から議論してきたと思うのですが、一方で私自身の中にも反出生主義はあると感じることがあります。
香山リカ(以下「香山」) それは、「生まれてくるべきではなかった」ということですか? それとも「子どもを産むべきではない」?
森岡 私個人の場合は、「生まれてくるべきではなかった」という、誕生否定のほうが大きいですね。
香山 社会的にはこんなに認められている森岡さんにして。それは、どういう理由でなのでしょうか。
森岡 一つは、人は生まれてきたら必ず死なないといけないということ。私には、これがひどく不条理なことに思えたんです。死ぬのは嫌だ、死が運命づけられているような生だったら、生まれてこないほうがよかった。どうしてこんな人生に私を産み落としたんだ、という叫びは私の中の深いところにずっとあります。
もう一つは、自分の加害性という問題です。誰でもそうだと思うのですが、人が生まれて生きてくるなかでは、周囲の人たちに対して多かれ少なかれ何らかの加害行為をしてきているわけでしょう。そのことを考えるたび、「自分という人間は存在しないほうが、周りの人にとって、そして宇宙にとってよかったんじゃないか」と感じるんです。無理に理屈をこねているわけではなくて、本当にそう思うんですね。
香山 今、コロナ禍のなかで自殺される人が増えていて、診察室にも「死にたい」と言ってこられる方がかなりの数、いらっしゃいます。その人たちの話を聞くと、「自分は誰の役にも立っていない」と、有用感、自己肯定感が著しく低下している人が多いと感じるんですね。コロナで仕事がなくなったとか、お芝居や歌などの表現活動をしていた人が発表の場を失ってしまったとか。真面目な人ほどそうなんですが、「何も人の役に立つことができないのなら、私なんか生きている意味がないんじゃないか。消えてしまいたい」というようなことを言うわけです。
森岡さんのおっしゃる「加害性」とは少し違うのかもしれませんが、やはり「私なんかいないほうがいい」ということですよね。でも、本当に人に迷惑をかけちゃいけないのか、人の役に立つ人生でなければいけないんだろうか、ということを考えざるを得ません。
子どもは「生きる理由付け」になるのか
森岡 私自身も、「生まれてくるべきでなかった」だけではなく、「死んでしまいたい」という思いを抱いたことは何度かあります。「生きていても誰の役にも立てないから……」というような論理立ったものではなかったのですが、人間関係が壊れてしまったことなどをきっかけに、今まで自明だと思っていた足下の地盤が突然崩れ落ちたような感じでした。体中から力が抜けて、人生の何もかもが無意味に感じられるようになってしまった。
香山 それは積極的な自殺願望というより、生きていても無意味だから、消えたとしても、つまり死んだとしてもそれほど変わりはない、というような心境でしょうか。
森岡 そういうことだったんでしょうね。今まで自分が哲学者として「生きる意味とは」などと考えていたことが、全部骨抜きになってしまった。だから「生きていても意味がない」という感覚は理解できる部分があります。私自身、どうやって「死にたい」という思いを乗り越えたのかは今でもよく分からないし、今後もまた同じような感覚に陥る可能性はあると思っています。