禍根の種をまいた90年代の高収益路線
長年かかって築きあげ、堅固と見えた城砦も、今や落城寸前。アメリカの自動車メーカー3社、とりわけGM(ゼネラル・モーターズ)とクライスラーの置かれている現状には、ある種の無常観を禁じえない。
原油価格が低迷していた1990年代、アメリカのビッグスリーは、まるで戦場を走り回る戦車の如き、大型のピックアップ・トラックやスポーツユーティリティー車(SUV)を大量生産し、高収益に沸きかえっていた。
高収益と大量の雇用は、政治の街ワシントンでの自動車産業の影響力を否応なく高め、そして、強い政治力は、一転、省エネ義務化や環境規制の面で、自国の自動車メーカーを優遇することにつながっていく。収益幅の大きいミニバンやSUVといった、ビッグスリーが輸入車に対して、競争上、活路を見いだし、自動車産業の基盤地である中西部諸州の議員たちの手で、次々と規制対象外扱いとされた大型車種偏重が、結果として、現在の禍根の種をまくことになる。
華々しい復活
改めて振り返れば、70年代は、アメリカにとって色々な変化が顕在化した時期であった。国際的には、2度にわたるOPEC(石油輸出国機構)の原油価格引き上げ(73年と79年の石油ショック)があり、イランで革命(79年)が起こり、自動車産業にとって致命的ともいえるガソリン価格の大幅上昇が発生した。国内的には、北部諸州でのリベラルな戦闘的労組の賃上げ攻勢もあって、自動車産業立地の南部シフトが一層進み、そうした過程で、ビッグスリーの一角、クライスラーが経営破綻の危機に追い込まれる(79年冬)。
他方、諸産業の南部への立地シフトとともに、彼の地のキリスト教保守派の政治力が強まり、ワシントンのアウトサイダーであったカーター大統領が誕生し、以後、積極的な規制緩和政策転換への路線が鮮明になっていく。それにあわせ、各種産業は政府規制を逃れるため、ワシントンでのロビー活動を活発化させることになる。肥大化し、維持にコストが掛かり、そのため重税感を感じる有権者が増える中、総じて自由を好み、小さな政府を主張する南部保守派の政治力学上の立場はますます高まっていく。当時のカーター大統領はこの哲学を“Less is More, Small is Better”(より少なくをもってより多くを得る。小さいことは良いことだ)と表現した。
かくして、80年代以降に入ると、キリスト教保守派、原油価格の低位安定から利益を受けたオイルマネー、それに産業構造の製造業からの転換の結果、急速に力を強めた金融関係者、の3者連合に支えられた諸政権が続く。共和党のレーガン、父親ブッシュ、民主党クリントン、それに共和党ブッシュである。
そして、これら諸政権は、程度の差こそあれ、小さな政府や規制緩和、市場重視を追求した。そうした姿勢と価値観を共有したのは、南部や中西部の農村に住む有権者層であり、保守派の社会評論家ケビン・フィリップスによると、彼らこそはまた、連邦政府に代表される大きな組織一般を忌み嫌う典型的アメリカ人であり、同時に、大型トラックやSUVの購買者であった、という。結果、それら生産側・消費側の諸々の要素の複合として、90年代にアメリカ自動車産業は華々しく復活したのであった。
好調から一転、未曾有の苦しみへ
外国メーカーとの競争の過程で品質は向上し、ワシントンでのロビーのお陰で高収益源になる車種は省エネ関連の規制を免れ、また、金融子会社の機能活用によって購買者に低利ローンを供与して、アメリカ自動車メーカーは国内販売拡大を続けてきた。そして何よりも、同じ時期、実質石油価格が低位安定していたという状況が、自動車産業の好調持続に大きく効いた。第1次イラク戦争(湾岸戦争 91年)や、2003年からの第2次イラク戦争なども、アメリカ国民の愛国心を刺激し、そうした心象のシンボルとしてのアメリカ車が人気を集め続けた。
また、これら局面を通し、金融は大幅に緩和されたままであり、かつ、株式市場は盛況で、それ故、消費者の購買意欲は高く、アメリカ自動車メーカーは資金繰りなど何ら気にせず、燃費効率も気にせず、唯々、大型車の拡大路線を続ければよかった。アメリカの自動車産業首脳にとって、対応の方向や方針は非常に簡単であった。
ところが、01年、原油価格が再び上昇し始めると、こうしたメカニズムは次第に崩れ始める。アメリカ国内市場での自動車販売は、1600万台の後半から前半の範囲内で推移、明らかに伸び悩みや低下の傾向を示すようになる。
さらに、その販売内容も、個人向けの比率が下がり、タクシーや社有、あるいは官公庁向けの、いわゆるフリート販売の比率が高まっていく。つまり、すでにこの頃から、一般消費者の買い控え傾向は進行していたのである。極言すれば、そうした実態を、自動車業界は、金融子会社を使った販売用低利ローンの供給によって、ある意味、無理やり隠していた、というわけだ。
しかし、07年ごろになると、原油価格は“上昇”から“高騰”へと進み、それとともに、アメリカ経済も07年後半には、サブプライムローン問題によって不況に入ってしまう。そして08年9月から11月にかけ、今度は金融が大混乱に陥る。大手証券会社リーマン・ブラザーズの破綻に端を発したアメリカ発金融危機である。
こうして見ると、これまで自動車産業を支えてきた、(1)オイルの要素、(2)ローンの要素、(3)南部や中西部の大型車好きのアメリカの消費者の要素、の三つともが、これで一気に、かつ、すべてはげ落ちたことになる。事実、アメリカ国内の自動車販売台数も08年には1320万台に急落した。
09年内1~2社の退場も?
08年末、ビッグスリーは、それまでの収益の源泉ともいえたSUVの主力工場を相次いで閉鎖した(厳密にいうと、3社はそれぞれに1工場ずつは残しているが)。同時に、連邦政府から緊急ローン支援を受けたGMとクライスラーは、09年2月中旬、並びに3月末をめどに、自社再生計画の政府への提出を義務付けられている(フォードの期限も3月末)。しかし、自社再生計画の諾否を決めるのは連邦政府であり、個々の自動車企業の技術開発の方向性やマーケティング戦略も、今やその命運はすべて連邦政府に握られた感がある。市場重視を唱えた路線の果てが、国家管理ともいえるような状況を招来するとは、歴史の皮肉、これに過ぎるものはないであろう。09年初頭、アメリカのデトロイトのモーターショーでの会議で、コンサルタント企業J .P.Power and Associatesのオニール社長は、自動車関係者の各種コメントの中でも最も悲観的な見方を披露している。いわく、「09年のアメリカ国内の自動車販売は、1140万台にまで落ちる可能性があり、そうなれば、1社、もしくは2社のアメリカのメーカーは野垂れ死に“walking dead”するだろう」と(オートモティブニュース1月14日付)。