「財政の無駄」とは何だろうか
政府の仕事ぶり、あるいは予算の執行には多くの無駄があると批判されている。財政の無駄として指摘される典型的な事例は、汚職や談合、公務員の怠惰な働きぶりや過剰な福利厚生、天下り官僚の法外な報酬、公金にかかわる不正や不適切な取り扱い、誰も利用しない道路などだろう。ここで無駄の概念を整理してみよう。
まず、明白な無駄から定義しよう。「明白な無駄」とは、「公共サービスの質を落とさないで削減できる歳出金額」である。たとえば、15の便益を生む歳出を10の費用(金額)で行っているとする。このとき、同じ15の便益を5の費用でも供給することができれば、費用の差額分(10-5=5の金額)は無駄な支出である。
ある公務員の人件費が年収800万円と割高であり、民間からより安い年収500万円で同じ程度の能力の人を雇用できるとすれば、その差額分の300万円は無駄な人件費になる。あるいは、ある道路を建設するのに、1億円の公共事業費を支出しているケースで、6000万円でもその工事が遂行可能であり、差額の4000万円は談合などで、受注業者の懐に入っているとすれば、その4000万円は無駄な歳出になる。
また、「明白な無駄」には、「歳出それ自体の便益がマイナス」という極端なケースもある。政府の歳出自体が国民に迷惑を与える場合である。建設する公共事業自体が余計な事業であり、たとえば、環境破壊を伴う宍道湖の干拓、諫早湾の干拓など、地域住民にマイナスをもたらすケースである。
「明白な無駄」は、概念的に分かりやすい。これに対して、コストとの比較で初めて定義できる、より広い概念の無駄もある。「相対的な無駄」である。これは、「公共サービスの便益が、その財源調達費用(コスト)よりも小さい」場合に相当する。
すなわち、歳出それ自体の便益はプラスだが、税負担などのコストを差し引いた正味の便益で考えるとマイナスになるものである。たとえば、10の便益を生み出すのに、15の支出(費用)が必要だとしよう。この場合、15-10=5の額は、無駄な支出額となる。
「相対的な無駄」の例はいくらでもある。たとえば、(1)青函トンネル、整備新幹線など、多額の建設費用の割にはあまり便益を生まない公共事業、(2)医療における過剰な検査・薬漬け、(3)裕福な高齢者への公的年金給付、(4)豊かな地域や人への補助金などである。これらは、当事者、あるいはその地域にとってはそれなりのメリットがある。しかし、その便益の大きさを金銭的に評価してみると、それに要する費用を上回っていない。国民全体から見れば、こうした歳出をやめることで、税負担も軽減されるので、メリットが大きい。必要性の低い歳出は、相対的に無駄な歳出と見なせる。
無駄の削減は容易だろうか
「明白な無駄」も「相対的な無駄」も、こうした歳出を削減すれば、国民全体にはプラスである。「明白な無駄」の場合は、それを削減(あるいは廃止)することで、得をする国民はいるが、損をする国民はいない。損をするのは、既得権を持っている高級官僚、公務員、土建業者など、国民全体から見れば、ごく一部である。一般庶民に痛みは生じない。これに対して、「相対的な無駄」の場合は、歳出を削減すること自体に痛みを感じる一般庶民が出てくる。たとえば、10の便益を生む事業をやめれば、その事業で便益を受けてきた国民にとっては10だけの損失になる。そのため、国民の多くが当事者になり得る相対的な無駄を節約することには、一般庶民も反対しがちであり、これを克服するのは難しい。
2009年9月に誕生した鳩山由紀夫政権に対する国民の期待は大きかった。官僚主導の予算編成をやめて、民主党の公約を実現すべく、政治家が主導する形で、公共事業を中心に無駄の撲滅に取り組もうとした。民主党は、無駄の削減で財政再建が可能だと総選挙で主張した。
しかし、民主党が政権を獲得した後の最初の予算編成では、新規の歳出増に甘い一方で、既存経費の削減はほとんど手つかずの結果となった。無駄の撲滅を掲げて予算を編成したが、結局は大して無駄は削減できず、事業仕分けで削減された歳出総額は1兆円にも満たなかった。
社会保障制度の無駄を糾弾し、負担増なしで給付の充実が可能だと指摘し、「ミスター年金」として威勢の良かった野党政治家が、厚生労働省の大臣となり、実際に社会保障予算編成の責任者となったとたんに、効率化への制度改革を先送りし、借金以外の財源を見つけられなかった事態は、その典型である。
これは、「相対的な無駄」を削減することが、現実の政治の場で容易ではなかったことを示している。
政権交代のメリットを生かせるだろうか
「まず無駄をなくせ」という議論は一見もっともらしいがゆえに、他の議論よりも優先順位が高くなる。しかし、無駄の中には結果としてやむを得ず生じるものや、国民に痛みを伴う無駄も多い。また、ある人から見れば無駄であっても、他の人にとっては無駄でないものも多い。国民の大多数が一致して無駄と思うものは意外とその規模が大きくない。財政の無駄を完全になくすことは不可能だろう。
また、無駄をなくしさえすれば、増税しなくても過去の財政赤字の後始末をして、かつ、高齢化社会で今後急増する社会保障需要など、これからの日本の歳出をまかなっていくだけの財源を確保できるとするのは無理だろう。
無駄をゼロにするという非現実的な目標を達成しようとしても、それで本当に削減できる財源はそれほど大きくない。また、国民の間で評価の分かれる無駄を本気で削減するには、痛みも受け入れるという覚悟が必要になる。簡単に無駄がなくせるという安易な考えでは、実際にそうした無駄は根絶できない。
これまでの自公政権がいくら財政事情の厳しさを国民に訴えても、政治不信、政治家不信の国民は、それを真剣に受け取ろうとしなかった。政権交代によって、政治主導を掲げた民主党が与党になり、無駄の削減だけで簡単には財政再建ができないことが明白となった。その結果、財政危機の深刻さを多くの国民が共有できるとすれば、これは政権交代のメリットである。
無駄の見直しが完了するまで消費税率の引き上げを先送りするのは、財政健全化の努力をしない口実でしかない。政府財政の破産の危機を回避するには、財政規律のない財政運営をそのまま続けるべきではなく、増税や、無駄でない歳出も削減するなど、財政政策の大幅な改革が不可避である。
高齢社会では、政治家は中高年世代の既得権益の擁護に回りがちである。目先の選挙対策ではなく、財政健全化が将来世代にとってメリットが大きいことを、政治家も国民も冷静に認識する必要がある。政府は、若い世代や将来世代の経済状態にもっと関心を持ち、財政再建や社会保障制度改革の長期的なメリットを重視して、将来を見すえた財政運営をすべきだろう。