チケット転売に反対する音楽業界
「私たちは音楽の未来を奪うチケットの高額転売に反対します」――。日本音楽制作者連盟、日本音楽事業者協会、コンサートプロモーターズ協会、コンピュータ・チケッティング協議会ら4団体は、2016年の8月22日に、コンサートチケットの高額転売に反対する共同声明を発表した。これにはアイドルグループ「嵐」やサザンオールスターズといった人気アーティスト116組、およびフジロック・フェスティバルをはじめとする24イベントが賛同者として名を連ね、以後も賛同者は増加している。翌23日には朝日新聞に丸ごと1ページを使った意見広告が出されて、大きな話題となった。構図としては単純で、要するに、コンサート事業者がダフ屋を非難しているのだ。なお、本稿では高額転売に関与し利益を上げようとする人たち――昔ながらのダフ屋や、転売店舗の営業者や、そこに出品する一般人の「転売ヤー」など――を総称して「ダフ屋」と言うことにする。非難の趣旨は、「本当に来たいお客さんが来られなくなる」、「本来アーティストに入るべきお金が入らなくなる」といったものだ。
こうした非難を見ると、私は深く当惑してしまう。もし私がコンサート事業者ならば、自分でダフ屋をやろうとするだろう。あるいは、せめてダフ屋に「傘下に入れよ」と垂直的合併を持ちかけて、彼らに良いチケットを優先的にまわして、利益の一部を自分によこせと言うだろう。実のところ私は「一部をよこせ」なんて可愛いことを言うつもりはない。チケットの独占販売者である私は、たくさんいるダフ屋たちに「良いチケットをまわしてください競争」をさせて、ダフ屋の利益をあらかた自分のものにするつもりだ。
どうしてコンサート事業者が自分でダフ屋をやらないのか、私にはよく分からない。でも、やればいいのにと思うし、やりたいはずだと思う。CDが売れなくなって久しい今日、コンサートで利益を上げるのは音楽業界にとって死活的に重要なことだろう。コンサート事業者には、ダフ屋が手にする「不正な」利益は自分のもとに来るべきだという気持ちがあるはずだ。
だがダフ屋が収益を上げられるのは、ダフ屋が価値を創造しているからだ。そもそもダフ屋から高いチケットを購入する人は自発的にそうするのであって、脅されたり強制されたりしているわけではない。ダフ屋がいると高い値段を払ってでもコンサートに行きたい人の手にチケットが渡りやすくなる。これは経済学でいう社会的余剰を上昇させているのであって、上昇させたぶんが価値の創造にあたる。
やっていることは日本国政府から国債を購入して市中に販売する大手の金融機関と同じようなものだ。国債と違うのは、人気アーティストのチケットは、人気に比してあまりに格安に、また運任せで入手できることだ。これが転売で利益を生み出すことを可能にしている。
転売市場の問題は一次市場の問題でもある
コンサート事業者がダフ屋をやるというのは、要するに、チケットの値段をもっと上げるということだ。最もよいのは適切に設計されたオークションで販売することで、そうすると高い値段を払ってでもコンサートに行きたい人の手に、チケットが渡るようになる。具体的なオークションの仕組みは後述するとして、要するに、マーケットをきちんと使うのだ。これも後述するが、お金のない若いファンが割引価格で買えるような仕組みを、オークションに内蔵させることもできる。発売元が、世にモノを送り出す最初の市場をプライマリーマーケットという。そこで世に送り出されたモノを取引する次の市場をセカンダリーマーケットという。国債でいうと、政府が金融機関に販売する市場がプライマリーマーケットで、その後に金融機関同士で売買したり、金融機関から個人投資家に販売する市場がセカンダリーマーケットだ。現代美術でいうと、作家が作品を売る市場がプライマリーマーケット、その後にそれが売買される市場がセカンダリーマーケットだ。セカンダリーマーケットでモノが高値で取引されても、発売元(政府や作家)にお金は入らない。
プライマリーマーケットでモノがそれを欲する人の手に渡るなら、セカンダリーマーケットは活発にならない。チケットのセカンダリーマーケットが活発なのは、プライマリーマーケットの出来具合が悪いからだ。
だが、プライマリーマーケットでオークションによりチケットを販売するならば、高い値段を払ってでも行きたい人しか買えなくなる。チケットへ支払ってもよいと思える金額は、アーティストへの好意と強く相関するだろうから(AKB48のCDを大量購入する熱心なファンを思い起こしてみよう)、これによりアーティストは「真のファン」からお金をたくさん受け取れるようになる。
これに対する安易な批判として「オークションだと金持ちしかチケットを買えなくなる」というものがある。しかし、そもそもコンサートとは、ファン以外の人にとっては、長時間にわたり身柄を拘束され、好きではない音楽を聴かされ、なのに周囲は盛り上がっているという、苦痛きわまりないイベントである。ヒマな金持ちのなかには物見遊山でコンサートに訪れる人もいようが、そんな珍しい属性を持つ人が多量に押し寄せてくるアーティストがどれほどいるだろうか。「オークションだとファンのなかでお金をたくさん使う気のある人ほどチケットを買いやすくなる」と言うべきである。
行動は口先より雄弁
アーティストが「熱心なファン」に来てほしいとしても、どのファンが「熱心」なのか識別するのは難しい。いかに口先で「自分は熱心なファンです」と主張しようとも、言うこと自体はタダである。これをチープトークというが、それでは熱心なファンとダフ屋とを識別できない。そこで熱心なファンでなければできない・やりにくいシグナリングを求めるのが、熱心さを識別するための有効な手段となる。一例を挙げよう。あるとき人気バンド「マキシマム ザ ホルモン」は、チケット購入の申込者に、自分たちのことをどれだけ好きか熱いメッセージを書くよう求めたことがある。熱心なファンは熱いメッセージを比較的容易に書ける一方で、そうでない者にとっては容易ではない。ダフ屋がチケットを入手するのは難しくなる。試験の結果や学歴から学力を推測するのはシグナリングの好例だが、ここでは書かれたメッセージによりマキシマム ザ ホルモンへの愛が推測されるのだ。
だが試験は受けるほうも、採点するほうも大変である。コストがかかるのだ。ファンがメッセージを書くのも手間だが、マキシマム ザ ホルモンのメンバーはメッセージを読むのに3カ月もかかってしまい、この制度は一度きりで廃止となった(意見広告が出された翌8月24日の、同バンド「マキシマムザ亮君」のツイッターによる)。なおマキシマム ザ ホルモンは意見広告の賛同者には入っていない。
筆者の知る限り、意見広告に賛同するアーティストのなかに、マキシマム ザ ホルモンのように本格的なシグナリングの工夫をチケット購入に活用した例はない。ここから推察するに、彼らは何らかのシグナリングを本格的に活用するほどには「熱心なファン」を識別したいと欲していないのだ。
ではなぜ、意見広告など打つのだろうか。朝日新聞に1ページ丸ごとの広告を出すには、おそらく何千万円もの費用がかかったはずだ。賛同アーティストやイベントを集めるにも相当な労力を使ったはずだ。口先だけのチープトークとはわけが違う。もし十分な利益の上昇が期待できないなら、コンサート事業者は、たんにダフ屋に抗議するためだけに、そのような多額の費用を払わないだろう。意見広告ごときでダフ屋はダフ屋をやめないだろうし、ダフ屋でチケットを買う人も買うのをやめないだろうし、そんなことは皆わかっているはずだ。