一方で、丹念に取材した調査報道などの「地味」なコンテンツは、信頼性は高くてもアテンションを得にくいため、今後、ジャーナリズムが衰退していく可能性も高い。報道機関自体、アテンション・エコノミーという同じ土俵の上で他のコンテンツと戦わざるを得ないので、どうしても刺激の強い記事や見出しを作る方向に流れていく。記者たちも「一生懸命取材して書いてもどうせ読まれない」となればやる気を失うだろうから、他の媒体やSNSの情報だけをもとにした「コタツ記事」が増えるのも必然だろう。こうしたジャーナリズムの弱体化が、権力への監視を弱め、政治的な腐敗にもつながっていくことは容易に予想できる。
また、近年よく耳にするようになった「フィルターバブル」「エコーチェンバー」といった現象も、アテンション・エコノミーと無関係ではない。
先にも触れたように、アテンション・エコノミーにおいては、多くのアテンションを得るためにその人が好む情報が集中的におすすめされる仕組みが作られる。そうすると、その人と異なる見方や意見は、まるでフィルターで遮断されたように届かなくなり、バブル(泡)の中で自分の好む意見だけに囲まれる、という状態が出来上がってしまう。これがフィルターバブルと呼ばれるものだ。
一方、エコーチェンバーは直訳すると「反響する部屋」。自分と同じような意見ばかりを受け取っているうちに、その意見が閉じた部屋の中で反響し、増幅して、だんだんと自分の考え方が過激化、極端化していく現象のことをいう。
心理学では、誤った情報であっても繰り返し接触しているうちに真実だと錯覚してしまうことがあると指摘されている。「真実錯覚効果」と呼ばれる認知バイアスである。陰謀論や偽・誤情報でも、フィルターバブルやエコーチェンバーにより何度もおすすめされると、「それこそが真実なんだ」と思い込んでしまうこともあり得るだろう。そして、それが最終的にはアメリカの連邦議会襲撃事件のように、バーチャル空間だけではなく物理的な暴力、最終的には暴動や内乱に結び付いてしまうような状況が生まれてきているのである。
日本ではまだそこまでの状況には至っていないかもしれない。しかし、今後さらにアテンション・エコノミーの影響力が強まっていけば、例えば選挙も、「どれだけ有権者の怒りや憎悪をあおり、その認知システムを刺激してアテンションを得るか」という「刺激の競争」に変わり、極度の分断や暴動をもたらす可能性がないとはいえないのではないだろうか。
もともと、SNSなどのソーシャルメディアとは誰もがいろんな人とオープンに結び付くことができるという理念のもとで生まれてきたものであり、かつては「アラブの春」に象徴されるように、少数派が権力に対して声をあげるツールとして大きな力を持つことも期待されていた。そのソーシャルメディアが、今ではアテンション・エコノミーという構造のもとで過度にビジネス化され、本来の理念から大きく離れてしまっているといえるだろう。
アテンション・エコノミーにどう対抗するか
EUでは、こうした状況に対する危機感から、「デジタルサービス法(DSA)」と呼ばれる包括的なプラットフォーム規制法が制定され、すでに運用されている。そのコンテンツがどのようなロジックに基づいておすすめされているのかといった「透明性」の確保や、みずからが採用するアルゴリズムなどが基本権や民主主義に与えるリスクの評価・抑制などを一定のプラットフォーム事業者に義務づける内容だ。ユーザーの属性や嗜好性分析に基づかない(ランダム性の高い)おすすめの仕組み、言いかえれば、アテンション・エコノミーにおける「囚われ」から逃れるための仕組みを提供する義務も課している。
こうした取り組みを進めるEUに比べると、日本ではアテンション・エコノミーとどう対峙するかについてまだ議論の途上にある。2023年版の総務省「情報通信白書」には「アテンション・エコノミーの広まり」という項目が設けられており、政府も課題を認識していることがわかるが、具体的な取り組みには至っていない。24年5月に情報流通プラットフォーム対処法が成立し、誹謗中傷などの権利侵害情報に対するプラットフォーム事業者の義務は少しずつ明確化されてきたものの、アテンション・エコノミーの構造そのものに切り込むような対策はこれからという状況だ。
もちろん、情報を制限することは表現の自由の過剰規制にもなりかねないため、慎重さが必要だ。「不適切な投稿を削除させる」というような安易な政策は、政府による検閲につながるリスクもある。ただ、DSAと同様、アテンション・エコノミーの構造や仕組み(トリック)を透明化するような規律はやはり必要なのではないだろうか。
また、子どもたちの保護のための対策は急務である。子どもは大人に比べて判断能力が未熟で、アテンション・エコノミーの影響を受けやすい。こうした脆弱性を踏まえ、例えばDSAは、未成年者に対して、属性・嗜好性分析に基づいたマーケティングを行うことを禁止している。また、欧州委員会は、2024年2月、DSAに基づき、TikTokがアルゴリズムの中毒性(依存症的傾向)や、子どもの精神的福祉などに与えるリスクを誠実にチェックしているかなどを調査すると発表している。「表現の自由」を重視する観点からプラットフォーム規制に消極的なアメリカでも、TikTokが子どもを中毒的状況に陥らせて、子どもたちからかけがえのない「子ども時代(childhoods)」を奪っているなどという理由で、TikTokに対する訴えが提起されている。日本でも、子どもをアテンション・エコノミーの病理から守るための取り組みが必要だろう。
もちろん、大人ですら、先述した「システム1」を過度に刺激されてその思考や行動を操作されることはある。かつて、憲法が保障する「思想・良心の自由」は、その人が意識的に有している「信条」を保護することに重きが置かれた。しかし、アテンション・エコノミーのもとでは、アテンションを奪うために設計されたAIやアルゴリズムによって、「システム1」や潜在的な認知システムへの働きかけが行われ、意識しないままに思考や行動を操作されることがある。そうであれば、思想・良心の自由は、意識できない認知過程をも保護するものと解釈されるべきであり、そうした考え方を前提にした法制度の構築も必要となるだろう。
摂取する情報を選択して「情報的健康」を
アテンション・エコノミーの病理に対抗していくには、私たちのリテラシーを向上することが不可欠である。その点で鍵になるのが、「情報的健康」という考え方だ。
アテンション・エコノミーのもとでは、アテンション(クリックやエンゲージメント)を得るために、刺激的で、かつその人の好む情報が優先的におすすめされる。その結果、情報の「偏食」が起きているともいえる。フィルターバブルやエコーチェンバーは、そのわかりやすい例だろう。また、私たちは次々におすすめされる情報を、その安全性や信頼性を確かめずに反射的に「暴飲暴食」しているともいえる。
このような情報の「偏食」や「暴飲暴食」により、偽情報などに対する「免疫」を失い、自律的で主体的な人生設計を妨げられることも起きているように思う。陰謀論の「偏食」によりそれを真実だと頑なに信じ込み、集団暴徒化して人生を棒に振った人たちは、ある意味でアテンション・エコノミーの犠牲者である。こう見ると、アテンション・エコノミーが加速していく時代には、さまざまな情報をバランスよく摂取したり、自らが摂取する情報の安全性や信頼性を意識したりすることで、情報的な「健康」を保つことが重要になるように思われる。