最有力候補者が就任を固辞
次期事務次官と次期駐米大使の候補に名前が挙がっているのは、海老原紳・駐インドネシア大使と、薮中三十二・外務審議官(政治担当)。現在の谷内正太郎・事務次官は2005年1月の就任以来、在任期間が3年近くになり、丸3年となる08年1月は交代の“適齢期”。現在の加藤良三・駐米大使に至っては、01年10月の着任以来、7年目に入り、異例とも言える長期の在任となっている。事務次官、駐米大使とも「いつ交代してもおかしくない状況」で、外務省は08年1月の次期通常国会の召集前に新次官、新駐米大使を決める方針を内定。07年の秋ごろから具体的な調整に入ったが、「想定外の事態」に見舞われ、初っぱなからつまずいた。加藤氏の後任の駐米大使の最有力候補と目されていた谷内氏が就任を固辞し、次期駐米大使のメドが立たなくなったのだ。
外務省にとって、谷内氏の固辞はまさに晴天のへきれきだった。谷内氏は条約局長、総合外交政策局長、内閣官房副長官補(外交担当)を経て事務次官を3年近く務める実力者で、次官退任後は「外交官の最高ポスト」と言われる駐米大使に就任するのが、政府・与党内では半ば当然視されていた。その谷内氏が「次官を最後に退官し、大学教授に転身する」として大使就任を辞退し、周囲による再三の説得にもかかわらず、「家庭の事情」などを理由に頑として首を縦に振らなかった。
「貧乏くじ」は引きたくない?
「谷内駐米大使」を前提として、新事務次官に海老原氏と薮中氏のどちらを充てるかじっくり調整する、という外務省の当初の人事戦略は軌道修正を余儀なくされ、海老原氏と薮中氏の「変則たすき掛け人事」を軸に調整を進めることにした。ところが、ここでも「思わぬ障害」にぶつかっているという。海老原、薮中両氏とも「駐米大使を敬遠している」(外務省筋)というのだ。両氏とも省内では指折りのアメリカ通として知られ、まさに駐米大使として申し分のない経歴を持つ。2人がそろって次期駐米大使に難色を示すのには理由がある。
ある外務省幹部はこう説明する。「今度の駐米大使は貧乏くじを引くようなものだからね。自ら進んで火中のクリを拾おうとする物好きはあまりいないでしょう」。
08年11月のアメリカ大統領選挙では民主党政権の誕生が有力視されており、日米関係は現在のブッシュ共和党政権とは打って変わって険しくなることが予想されている。ブッシュ政権の前のクリントン民主党政権は、経済問題で対日強硬姿勢を打ち出すとともに、外交面では一部で「ジャパン・パッシング」(日本無視)と評されるほど中国への接近を深め、日米関係は緊張続きの局面を強いられた。08年のアメリカ大統領選挙で、民主党の有力候補であるヒラリー・クリントン氏が当選すれば、その「悪夢」が再来しかねない。
背景に潜む「押しつけ合い」の構図
もともと外務省の対米人脈は、共和党とはそこそこのパイプがあるが、民主党とは細い。そこに小泉純一郎元首相とブッシュ大統領との個人的な信頼関係をもとに、「蜜月」とも言える親密な時代を築いた共和党政権が8年間も続き、その間に、その反動として民主党との人的なつながりは皆無と言えるほどに細ってしまったという。そんなところに「ヒラリー・クリントン大統領」の登場となれば、対米外交の最前線に立つ駐米大使が辛酸をなめるのは目に見えている。外務省幹部の言う「貧乏くじ」とはそのことで、海老原、薮中両氏が次期駐米大使を敬遠するのは、善しあしは別として、アメリカ通としてその辺の事情がよく見えるからにほかならない。外交トップ人事の迷走の背景には「駐米大使の押しつけ合い」というかつてない構図が潜んでいる。混乱に拍車を掛けているのが、次期事務次官人事をめぐるメディアの報道だ。ある全国紙が11月上旬に、「高村正彦外相が谷内氏の後任次官に海老原氏を起用する方針を固めた」と報じたが、当の高村外相は「まだ何も決まっていない」と激怒。その全国紙を一時、全面的に出入り禁止にするなど、ちょっとした騒ぎに発展した。こうしたメディアの「勇み足」も響き、外務省は首相官邸とも協議のうえ、08年1月に予定していた事務次官と駐米大使の交代時期を先送りすることを決めた。調整の長期化は避けられず、外交トップ人事はますます混迷の度を深めそうだ。
海老原紳(えびはら・しん)
1971年(昭和46)東大法学部中退、外務省に入省。国際機関第2課長、中近東アフリカ参事官、小渕恵三首相秘書官、駐米公使、条約局長、北米局長、内閣官房副長官補(外交担当)などの要職を歴任し、2006年3月に駐インドネシア大使に就任した。
薮中三十二(やぶなか・みとじ)
1969年(昭和44)大阪大学法学部中退、外務省にいったんノンキャリア職で入省。翌70年に外交官試験上級職(キャリア)試験を受け直して合格し、再入省した。国際機関第2課長、北米第2課長、シカゴ総領事、アジア大洋州局長、外務審議官(経済担当)を歴任し、2007年1月に省内ナンバー2の政治担当の外務審議官に就いた。