若い世代に受け継がれる沖縄戦の記憶
1945年、すなわち62年前の太平洋戦争末期の沖縄戦()は、日本本土ではほとんど忘れられた過去である。政府も、「大東亜戦争」と呼ばれた侵略戦争を過ぎ去ったこととして葬り去り、あるいは安倍政権や一部の勢力がそうしたように正当化または美化しようとさえした。日本の歴史はあくまで清く正しく、軍隊や軍人がどんなことをしたとしても、その名誉は何としても守らなければならないというわけである。しかし、沖縄では、戦争はつい昨日のことのように語り継がれ、あるいは日本が支援する米軍基地とその戦争参加という形で現在も続いている。平和の礎(いしじ)で遺族が手を合わせ、その資料館の名前に「平和祈念」という文字がついているのは、戦争に対する住民の感情をよく表している。平和の礎に祀られているのは「英霊」ではなく沖縄戦でのすべての「戦没者」である。沖縄住民以外でも、たとえば太平洋諸島などで戦争に巻き込まれた一般日本人もいたが、現在の日本人で戦争をこのように記憶しているのは、旧軍人の遺族を除いてきわめて少ないだろう。
沖縄戦では、米軍を含む約20万人が命を落としたが、このうち、一家全滅者を含むおよそ12万2000人が県民であった(注)。その圧倒的多数は米軍によって殺されたが、米軍の呼びかけに応じて投降しようとして、あるいは沖縄の言葉を使ったということでスパイの嫌疑を受けて日本軍兵士に殺されたり、壕の中で泣きわめいた赤ん坊が殺害されたケースもあったことが、当時の証言を集めた「沖縄県史」などで多数報告されている。軍が住民を壕から追い出したり、食料や水を奪ったという話も少なくない。
沖縄で高校生の間にさえ反戦・平和祈念意識が高く、旧日本軍への反感が強いのは、身近に戦争体験者や遺族が多いだけでなく、慰霊碑や当時避難壕として使われたガマ(洞穴)があり、一方で米軍が日夜ごう音を立てて戦闘訓練を行い、またこうしたことがらが平和学習に格好の「教材」を提供しているからだろう。ここにも日本本土との「温度差」を生む要素が隠されている。できるだけ住民の声を反映させようとする沖縄のメディアと、時勢に流されて国民より国家の側に立ちがちな多くの本土メディアとの違いが、この温度差を増幅させる。
集団自決の原因を「犠牲的精神」に求めた旧防衛庁
文部科学省の教科用図書検定審議会(検定審)は、2006年12月、高校の日本史教科書に関して、沖縄戦の住民集団自決に日本軍の命令や強制があったという記述は歴史的事実に反し、「誤解」を与えかねないので、削除すべしという検定意見をつけた。しかしその1年後、軍命削除に対する沖縄県や県内市町村の抗議、大規模な抗議集会などをへて、検定審は、この検定意見を引っ込めないまま、「日本軍」という言葉の復活と、「命令」や「強制」に代わる「関与」という表現を認めて軌道を修正し、文科大臣からその旨発表された。集団自決が起こったという事実は、米軍の公式戦史だけでなく、防衛庁(現防衛省)戦史室の戦史にも記されている。戦史室の戦史は、たとえば座間味と渡嘉敷での集団自決についてこう述べる。「米軍の慶良間列島上陸は、座間味村(そん)及び渡嘉敷村において老幼者の集団自決という悲惨事を招来した。その自決者は、両村合わせて700名という(厚生省資料)。この集団自決は、当時の国民が一億総特攻の気持にあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮がきわめて高かったことがその根本的理由であろう」(防衛研修所戦史室「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」)。
この戦史は、集団自決の理由を、米軍上陸および「一億特攻精神」だけでなく「戦闘員の煩累(はんるい。わずらわせ)を絶つため(の)崇高な犠牲的精神」に求めた。実質的な戒厳令体制の下での総動員法、大政翼賛会や警察などがもつ強制性、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と教えた教育勅語に基づく国家=天皇への忠誠心育成、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」とした戦陣訓や軍官民共生共死(総特攻=総玉砕)の思想、米軍への異常な恐怖を駆り立てた「鬼畜米英」宣伝などに理由を求めることなく、米軍の存在や、住民の「崇高な犠牲的精神」に転嫁するのである。住民は犠牲的精神により、自ら名誉ある死の道を選んだ、と言わんばかりである。
実態は「集団無理心中」だった
検定審が軍による強制について歴史的事実に反するというのは、戦隊長の自決命令が確認されていないことを根拠にしている。住民の集団自決は、慶良間列島だけでなく、伊江島、読谷、摩文仁などでも起こったことが報告されている。皇国のための義勇や一億総玉砕を教え込まれた住民が、「米兵は男なら射殺するか戦車でひき殺し、女なら陵辱してから殺す」と信じて恐怖心に煽り立てられる中、兵士たちから直接あるいは村役場職員や駐在巡査を通じて、「いざとなったら使え」と手榴弾を渡された住民が、それを爆破させて家族ぐるみ、または集団で自決するのを見た、自分もその中にいたが助かった、近くで知人がカミソリや鎌で妻や子供を殺した後で自決した、自分も家族に手をかけた、といった証言は、かなりある。
彼らの自害行為は、「尽忠報国」の「崇高」な精神に基づく「自決」ではなく、米軍への恐怖心を植えつけられ、日本軍が守ってくれない孤島という環境で追いつめられた末、実質的に強要された「集団無理心中」であった。一部の集団自決については、実際に戦隊長や兵士から命令があったという住民の証言が、上記の「沖縄県史」のほか、「渡嘉敷村史」、沖縄タイムス社編「沖縄戦記 鉄の暴風」などにも記録されている。1944年には、当時の第32軍司令官・渡辺正夫中将が、那覇市内での講演で、「(敵が上陸したら)全県民、軍と運命を共にし、玉砕の覚悟を決めてもらいたい」と語ったという(「鉄の暴風」による)。そのほかに、日本本土から隔絶された島で住民がおかれた絶望的な状況も視野に入れて強制性を考える必要があろう。
「防波堤」にされた沖縄の思い
軍命(隊長命令)があったかどうか確認できないことを理由に、軍命に関する記述を削除させた検定審の最初の検定意見は、戦時に、とりわけ住民を巻き込んだ戦場となった沖縄で、日本の軍隊がもっていた絶大な権力(強制力)と当時の住民の絶対服従性を否定して、日本史と日本軍の名誉を守り、その行動を正当化しようというものであろう。検定審は、2度目の意見書で「日本軍」を復活させ、「命令」や「強制」の代わりに「関与」を認めたものの、最初の検定意見は堅持した。日本史と日本軍の名誉に加えて、文科省官僚の無謬(むびゅう)性への強いこだわりを感じる。現在も日本本土を守るための軍事的「防波堤」と位置づけられている沖縄では、軍隊に対する拒否反応が強い。その防波堤の中で何が起こっているのかを含めて、政府だけでなく本土の日本人も、自らのこととして考えてみる必要がある。それがなければ、日本史・日本軍の名誉を守ろうという思いと、集団自決(集団心中)に対する沖縄住民の事実認識や思いとの間の溝は埋まらない。問われているのは、具体的な自決命令の存否ではない。
また国粋主義的な狭い視点から教科書検定が行われ続けるならば、この国は憲法に保障された民主主義の根幹をなす言論と思想の自由、旧教育基本法では保障されていた「不当な支配」に服しない「公正かつ適切な」教育、そして国際的な信頼を失いかねないだろう。
沖縄戦での戦没者数
沖縄県援護課の調べでは、日本側の死者総数は約19万人で、うち約9万4000人が軍人・軍属、同じく約9万4000人が一般住民だった。一般住民と、防衛隊員や学徒隊員などを含む沖縄県出身の軍人軍属約2万8000人を合計した12万2000人は、当時の沖縄県総人口約59万人の5分の1弱に相当する。米軍側約1万3000人とあわせ、沖縄戦での戦没者総数は約20万1000人。ただしこの数字には、1万人余いたとも推定される朝鮮人被徴用者のなかの死者は含まれていない。