16年ぶりの政権交代
2009年8月30日の衆議院議員総選挙で、野党第一党の民主党が大勝して、これまでの自由民主党と公明党の連立政権に代わって、民主党と社民党、国民新党3党の連立政権が発足した。民主党は今回の総選挙で308議席の圧倒的議席を獲得したが、連立政権となったのは他の2党の協力がなければ、参議院で過半数に届かないからである。支配政党の交代という意味での政権交代は、1993年の細川内閣以来である。細川内閣は、その前年に日本新党を結成して新党ブームの火付け役となった細川護煕の日本新党、衆議院の選挙制度改革や政治資金規正に関する政治改革をめぐり、自民党から分裂した羽田孜や小沢一郎らの新生党や、武村正義、鳩山由紀夫らの新党さきがけ、それに従来からの野党の社会党、公明党、民社党など8党派(7政党と1院内会派)の連立政権であった。各党の基本政策も大きく異なり、野党に転落したとはいえ衆参の抜きん出た第一党の自民党を相手に、「ガラス細工」とも揶揄(やゆ)された。
結局、細川内閣は、連立政権の最大の課題であった政治改革の実現後、政権内の各党の対立と、自民党による細川首相のスキャンダル攻撃などにより、9カ月足らずで幕を下ろした。続く新生党の羽田内閣も、社会党と新党さきがけが政権を離脱したため、2カ月で崩壊し、自民党は社会党の村山富市委員長を首相に担ぐ、自民・さきがけ・社会3党の自社さ政権で政権に復帰し、その後首相ポストを奪い返して、連立相手を変えて今回の総選挙まで政権の座を維持してきた。
憲政史上初めての国民による選択
細川政権と今回の鳩山由紀夫政権の違いは、細川政権が総選挙後の政党の合従連衡で成立し、細川首相も政党間の駆け引きの中から生まれたのに対して、鳩山政権の場合は自民党と民主党の二大政党化の流れの中で、民主党が「政権交代」を総選挙のスローガンに掲げ、有権者が鳩山首相とその政権を自覚的に選択をしたことである。わが国の憲政史において、有権者が誰が次の首相かをはっきり意識して、政権交代を実現させたのは初めてのことである。もともとわが国では、有権者が直接政権交代を選択したケースは多くない。戦前の明治憲法の下では、元老が天皇に次期首相を推薦していたが、昭和初期の「政党内閣」の時代には、二大政党の政友会と民政党の間で政権交代が行われていた。このとき元老の西園寺公望が採った手法が「憲政常道論」で、政府に失敗がない場合には政府を継続させ、政府が失敗すると野党に政権を移した。
例えば政友会の田中義一内閣が、張作霖爆殺事件の「満州某重大事件」で退陣すると、政友会内閣の落ち度として民政党の浜口雄幸に政権を移した。その浜口が東京駅で狙撃され、職にとどまることができなくなったときは、民政党の失敗によるものではないとして、同党の若槻礼次郎を次期首相とした(第2次若槻内閣)。そして第2次若槻内閣が安達謙蔵の協力内閣論(今で言う大連立)で行き詰まって総辞職した後は、政友会の犬養毅を後継とした。
そうやって政権を得た政党は、当初は衆議院の少数派だから、政権に就くと程なく解散総選挙を行い、多数派になった。選挙で多数派になって政権交代という手順ではなく、政権交代→選挙→多数派という手順だったのである。
その戦前で唯一選挙で政権交代があったのが、1925(大正14)年の護憲三派内閣である。このときは枢密院議長の清浦奎吾が貴族院議員を中心に組閣したのに対して、貴族院特権内閣打倒の第2次護憲運動が起き、総選挙で憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派が勝利して連立政権を樹立した。首相は憲政会の加藤高明だったが、それは結果的に憲政会が最多議席を獲得したからで、国民が加藤高明首相を意図して投票したわけではない。
有権者に見られる投票行動パターン
戦後日本国憲法が制定され、日本も選挙の結果で政権の所在が決まる議院内閣制になった。しかし政権の継続と交代が、ともに国民の直接的な意思表明によって行われるという姿にはならなかった。その理由は、自民党成立前は多党的な状況が続き、自民党成立後は政権は常に自民党が担うことになったからである。現憲法下で初めての47年4月の総選挙では、社会党が143議席で、自由党の131議席を上回って第1党となったために、政権交渉では社会党が主導権を握り、難航の上とりあえず片山哲首相の首班指名だけ行って1人内閣として発足し、結局、民主、国民協同との3党連立になった。片山内閣が内部の左右の対立で瓦解した後、政権はたらい回しで同じ3党連立の民主党の芦田均内閣となった。その芦田内閣が昭和電工事件で倒れて、選挙管理内閣としての第2次吉田茂内閣になり、解散総選挙で以後戦後日本を形作る吉田時代が続く。ここでも選挙→政権交代ではなく、政権交代→選挙のパターンである。
さらに吉田の退陣後の第1次鳩山一郎日本民主党内閣は、少数単独内閣で、やはり選挙管理内閣であった。しかし吉田のときと違って、総選挙によっても議席は大幅に伸ばしたものの過半数確保はできなかった。選挙の前から「鳩山ブーム」が起きていたことは確かで、鳩山首相を期待して投票した人が多かったことは間違いないが、国会の首相指名選挙で鳩山に投票した野党の自由党の協力があって第2次鳩山内閣が成立したことも事実である。こうして第2次鳩山内閣は少数単独内閣で発足し、途中で保守合同によって自民党内閣となり、以後自民党政権が続くことになる。
このように見てくれば、日本の有権者は、戦前も戦後も、自ら政権党を選ぶというよりは、何らかの理由で成立したときの政権党に投票するという行動パターンが一般的のようである。
(後編へ続く)