深刻な政治不信
このことを数字で確認してみよう。図表1は、日本の政治や行政で重要な役割を果たす機関や職を、どの程度信頼しているかを尋ねた意識調査の結果である。図表1をみると、国会議員や官僚は、その他の機関や職と比べて、信頼できないとする回答が圧倒的に高いことがわかる。国民の半数以上が官僚を信頼できないと答え、6割以上が国会議員も信頼できないとしているのである。これらの回答は、時期によって増減があるが、議員や官僚に対する信頼感は、2001年(小泉ブーム)と09年(政権交代)にわずかに上昇したのを除けば、ずっと低位で推移している。政治・行政不信の極みだ。これは、国の政治行政が政治家や官僚によって運営されている以上、極めて深刻な事態といわざるを得ない。
失われる信頼
政治家や官僚への信頼感が低下傾向にあるのは、多くの先進国で共通しているが、その程度は日本が高いことはあまり知られていない。図表2は、世界の主な国で政府や議会、政党がどの程度信頼されているかを比較したものである。こうしてみると、日本は政治不信が高いことで知られているアメリカとほぼ同じ水準にあり、スウェーデンなどと比べると議会を信頼しないとする国民は倍近くもいることがわかる。つまり、日本は極度の政治不信の状態に置かれているのである。
こう考えると、多くのことが説明できる。例えば、日本では09年に政権交代があったが、それも民主党が信頼を勝ち取ったからというより、それまでの自民党政権に対する不信があったからである。実際に翌10年には参議院で民主党政権が過半数を失って「ねじれ国会」が生まれ、12年には自民党が政権を奪取したが、これも民主党政権が信頼を失ったからである。期待しては裏切られ、裏切られては期待して、というサイクルを経るたびに、政治は信頼を失っていくことになる。
政治不信がもたらす副作用
こうした政治不信の蔓延は、さらに深刻な事態をもたらしていることに注意しなければならない。例えば、消費税論議を例にとろう。消費税引き上げは、12年に民主党・自民党・公明党の合意でもって決められたが、その際にみられたのは「引き上げる前に国会議員が身を削るべきで、行政改革が必要だ」といった声である。本来、税金とは国民が自分で受け取るサービスの量の拡大や質の向上のために使われるものだ。それも消費税は社会保障のためだけに使われるという条件がつけられている。それにもかかわらず、増税反対の声が大きく、議論がなかなか進まなかったのは、それを配分する側(政府や行政)が信頼されていないからだ。こうして、政府は必要とされる財源を調達するのが困難となって、政策が停滞することになる。そればかりか、納税者を納得させるために、民主党政権は国会議員の定数削減を打ち出さざるを得ない破目に陥った。実際は、日本の議員定数は人口比でみた場合、先進34カ国中、最も少ない部類に入っており、これは社会の多様性を議会の場になるべく反映させるという民主主義の原則からみて望ましいことではない。蔓延する政治不信は、こうした副作用をもたらしていくことになるのである。
批判は自分たちに跳ね返ってくる
私たちは、政治家や政党を批判すべきものとして捉えるのを当たり前のものとしているが、実際にはこのような多くの負の側面があることも忘れてはならない。批判すべきは、政治家や政党そのものではなく、その内容や政策でなければならない。民主政治とは、私たちの共同体のことを私たち自身の意見で決めなければならない政治のことである。にもかかわらず、私たちの代表である政治家や政党を信頼せず批判に終始するだけならば、それは自分たち自身の決定能力そのものを結果的に損なうことになってしまう。もちろん、政治家や政党を盲目的に信じる必要は全くない。しかし、信頼できないからといって、彼らの言動に対して単に「ダメ出し」するだけならば、それは自分たちでいつしかツケを払わなければならなくなるというのが、民主政治というシステムなのだ。そのツケを払うのが嫌なのであれば、まず自分たちが投票に行くこと、投票で反映されなかった事柄については諦めないで声を上げ続け、政治家や政党を動かそうとすること――簡単にいえば、政治参加の量と質を拡大していくことが、政治をよくする身近な方法なのだ。内なる政治不信を克服できた時、政治は信頼を取り戻すことになるだろう。