長年、政治は政権与党にお任せし、官尊民卑に馴(な)らされてきた日本の人々。しかし、東京電力福島第一原子力発電所の事故や沖縄の基地問題、特定秘密保護法や安全保障関連法制などに対して、声を上げる人が増えている。それは、「市民カテゴリーというものが明らかに広がり、それに伴って市民運動にも新しい意味が付与され、深い意味での社会、文化の変化が起きているからです」と語るのは、上智大学の中野晃一教授だ。新しき市民はどうやって生まれ、市民運動はどう変化したのか? そして政治を動かす“名乗りの連帯”とは? 中野教授がやさしくレクチャーする。
「市民」という言葉の命が葺き替わる
私は現在、「市民連合(安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合)」と「ReDEMOS(リデモス:市民のためのシンクタンク)」に、呼びかけ人や理事としてかかわっています。この二つには「市民」という言葉が含まれています。
古代ギリシャの「都市国家(ポリス)」には、構成員としての「市民(ポリテース)」が存在し、その人たちが主権者として自分たちで物事を決めるという、まさにデモクラシーの原型がありました。この二つの言葉は、政治を表す英語「politics」の語源になっています。
ローマ時代には、同じように市民という概念を表すラテン語として「cives」が使われていました。これが、英語では「citizen」、フランス語では「citoyen」となったといわれています。
ですから、市民という言葉の中には、デモクラシーという概念が含まれているのです。しかし、日本語として訳された際には、そうしたニュアンスがあまり伝わらないまま、これまで使われてきたように思います。
一方で「people」という英語があります。これは「人々」と訳すことが一般的です。ただ、自分たちのアイデンティティーを表す団体名として使う場合、たとえば「人々連合」では収まりがよくありませんし、意味が伝わりません。だからといって、「人民」では、どこかの国を連想してしまいますし、「国民」では、まずは国ありきのようなイメージが付きまといます。
そこで、市民という言葉に戻るわけですが、日本では、これまでの市民という言葉の意味や概念が、今まさに変化の最中にある、「主権者である市民」という意識が高くなっていると私は感じています。
言葉というものは生きものですから、これまでの意味とは違った意味で使われるということはいくらでもあったわけです。たとえば「ありがとう」という言葉は「有り難い」、つまりあまりないという意味ですが、今はそんな使い方をする人はまずいないでしょう。「やばい」という言葉も、我々の時代はネガティブな言葉でしたが、いまや「カッコいい」「おいしい」などポジティブな使い方もされています。
要は意味がぴったり合う言葉がない場合に、元からある言葉に命を葺き替えるというか、違う意味や印象を持たせていくということがあるわけです。これは言葉という文化の変化ともいえます。
ネットに書かれるほどプロ市民は多いのか?
「市民」とは別に、「プロ市民」という言葉がいつからか使われるようになりました。政治的にアクティブな人々に使われることが多く、お上にたてつく左派やリベラルという意味を込めて右派の人が揶揄(やゆ)するのに使う、あるいは保守的な人たちには敬遠したくなる響きがあるように思います。
しかし、ネット上で話題にされるほど、プロ市民なる者がいるのかというと、疑わしいと思います。
たとえば、ツイッターなどに「(沖縄の)辺野古でデモを行っているのは、プロ市民が大半」といった意味合いの書き込みがよくあります。2016年6月5日の沖縄県議会選挙で、辺野古移設工事を中断させた翁長雄志(おながたけし)知事を支持する勢力が過半数を維持しました。このことから、沖縄の人々が辺野古移設に反対していることは明らかです。反対する「市民」が数多くいるのです。
同じ日に、川崎でヘイトスピーチデモを阻止したのも、普通の市民でした。人々が、自分たちが主権者であることにめざめ、意見を主張しだしたのです。
市民運動にも新しい潮流が
市民という言葉、有り様が変化したことで、市民運動にも変化がみられるようになっています。
市民運動を西ヨーロッパの歴史でみると、非常に単純化した流れでいえば、中世の封建主義や王政の中、産業が発展することでブルジョワと呼ばれる市民層が生まれ、勃興していった。そして彼らが市民革命を引き起こし、立憲君主制や民主制を打ち立て、いわゆるボトムアップで近代の道へ進んだという経緯があります。
日本では、第二次世界大戦後も、そうした意味での市民層もいなければ、政治に関しては政権与党にお任せ状態、つまりトップダウンという構造でした。
もちろん、戦前から学生運動や労働運動といったものはありました。しかし、学生運動でいえば、当時は大学生というだけですでにエリートだったわけです。学生運動をしている人は、エリート中のエリートという存在で、一般大衆をめざめさせるための運動という意識でした。
また労働運動は問題の当事者である労働者の運動であり、市民運動とは一線を画すものです。そして、学生運動も労働運動も、政治と密接な関係がありました。
これに対し、市民運動は、政党とは一定の距離を置き、同じ意識や目的を持つ人が集まって運動するという形です。ですから、日本で市民運動というものが耳目を集め、政治的な影響力を持ってくるのは1980年代に入ってからといってもいいのではないかと思います。
同じ意識や目的で集まった運動という点では、京都市在住で3人のお子さんを持つ西郷南海子さんが立ち上げたネットワーク「ママの会(安保関連法に反対するママの会)」は、まさにそうです。「だれの子どももころさせない」というメッセージに共感する人なら、男性でも、独身でも、年配の人でも誰もが参加できる、非常に開かれた市民運動です。
「ママの会」の行動力は本当にすごい
「ママの会」というネットワークは、全国に広がっています。この会は西郷さんがトップにいるわけではなく、それぞれの「ママの会」が自分たちで企画し、自分たちで行動する会です。
その中には、子連れで国会議員の方たちに会いにいったり、「武器輸出をしないで」と経団連(一般社団法人 日本経済団体連合会)に集めた署名を渡しにいったりと、本当にすごい行動力を発揮する人も出てくる。あるいは、住んでいる町で声を上げる。自分の生活の場で行動することは大変なことですが、いちばん効果的でもあります。
問題は、こうして声を上げる人、特に女性に対して中傷する人が必ずいることです。
インターネットなどで話題になっている英語の造語で「mansplaining(マンスプレイニング)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
「explain(説明する)」という単語の「ex」を「mans」に替えて「ing」を加えた造語です。「男が偉そうに女性に説教する」ことを揶揄するときに使われるのですが、先日、典型的な場面を目の当たりにしました。
16年5月16日の衆議院予算委員会で、安倍晋三首相が、民進党・無所属クラブの山尾志桜里議員に対して、「議会の運営について勉強した方がいい。議会については、私は立法府の長である」といった意味の発言をしました。この上から目線の発言は、まさにmansplainingです。おまけに、首相は立法府の長ではなく行政府の長なわけで、憫笑(びんしょう)ものでした。
はっきりものを言う、異議を申し立てる女性がたたかれる傾向は、世界的にあります。特に日本は男尊女卑の風土がいまだに強く残っている気がします。