地位協定前身の交渉官・西村熊雄の気概
行政協定の交渉に臨んだ当時の政治家や外交官には、日本の主権回復後も占領時代に獲得した米軍の絶対的な権限を維持しようとするアメリカに対し、少しでも独立国にふさわしい協定に近づけようとする気概があった。1952年1月、最初の公式会議で、日本側の代表を務めた岡崎勝男官房長官(吉田茂内閣)は「平等な主権国家としての日米間の関係は、占領時代とは異なることを明らかにしなければならない」と強調した。
結果的には、「在日合衆国軍隊の地位が平和条約の発効により一夜に激変を受けることを回避するよう」(外務省の交渉記録)求めるアメリカ側の強い態度に押し切られ、全体的にはNATO地位協定に比べて不平等な内容となってしまった。これについて、実務者レベルで日本側の責任者を務めた外務省の西村熊雄氏は、交渉の一連の経過をまとめた文書の結語に次のように記している。
「こうして協定を通読すると、日本ばかりがgive and give することになる印象をつよめることも見逃してはならない。(中略)国会および世論の期待するところを達成すべく根気よく努力を重ねたところであった。が、ついに目的を貫徹しえず(中略)交渉当事者自身はなはだ不満で早晩できるかぎり早めにその改善をはからねばならないと心ひそかに期するところがあった」(外務省日本外交文書「平和条約の締結に関する調書」)
もし、西村氏が今の日米地位協定の現状を見たら、どう思うだろうか。協定の条文がほとんど変わっていないことにも驚くだろうが、自分たちが努力して勝ち取った成果(軍属の定義から請負業者の従業員を削除)まで実質的に失われてしまっている現実に愕然とするのではないか。
事件後の日米合意は国際標準にすら届かなかった
沖縄で発生した米軍属による女性暴行殺人事件を契機として、日米両政府は軍属の範囲を明確にする協議に入った。私はてっきり、これでようやく日米地位協定も、軍属は原則として米軍に雇用される者に限るという「国際標準」に合わせられるのだろうと思っていた。だから、最終的に日米が合意した内容を目にしたときは、それこそ愕然とした。
事件の翌年の2017年1月、日米両政府は「日米地位協定の軍属に関する補足協定」に署名した。日本政府は「これまでの運用改善とは一線を画する画期的なものだ」(岸田文雄外務大臣=当時)と自慢してみせたが、地位協定上の軍属の定義を変えないばかりか、何と、米軍の任務遂行に不可欠な専門的技術者など一部の請負業者の従業員を引き続き軍属に含めるという合意だったのである。私は、行政協定締結から65年が経ってもなお、「国際標準」にすらしてもらえないのかと暗澹たる気持ちになった。
元防衛大臣で、現在は小野寺五典防衛大臣の政策参与を務めている森本敏氏が共著本の中で、この交渉について「アメリカ国防総省を相手にした強烈な交渉であったようです」と記している。森本氏によれば、外務省の森健良北米局長らがペンタゴン(国防総省)で交渉している最中、アメリカ側は「君らとこれ以上話したくない」などともの凄い剣幕だったという(森本敏・田原総一朗共著『徹底討論 どうする!? どうなる!?「北朝鮮」問題』海竜社)。
この交渉で日本側がどういう要求をしたのかは不明だが、おそらく、「国際標準」を超えるような無理な要求はしていないだろう。それでも、もの凄い剣幕で怒鳴る(?)のだから、ペンタゴンが日本をどう見ているのかが透けて見えるエピソードである。
しかも、米軍から日本政府に報告された軍属の数は2017年10月時点で7048人と、補足協定締結前(2016年末)の約7300人からほとんど減っていないのである。いったい、何のための補足協定だったのかと思わざるを得ない。
この軍属の問題は、日米地位協定における日本の主権放棄ぶりを象徴している。
日米両政府の長年にわたる不作為が招いた混乱
安倍首相は今回の日米首脳会談で、トランプ大統領に対し、日米地位協定に基づき遺族への補償金を支払うよう求めるべきであった。だが、トランプ氏との蜜月関係を演出することに腐心する安倍首相は、沖縄県が反対する普天間基地の辺野古移設を「唯一の解決策」と再確認することはしても、日米で意見が対立しているこの問題は議題に上げようともしなかった。
繰り返しになるが、事件当時はシンザト被告は軍属としての特権を享受していたのだから、アメリカ政府は日米地位協定に基づいて慰謝料を支払うべきだ、という主張には正当性がある。
そもそも、アメリカの国内法では公務と関係のない事件の賠償は、米兵だろうが軍属だろうが加害者の責任で行うべきものとされている。それでも地位協定でアメリカ政府による慰謝料支払いの規定があるのは、軍の性格上、加害者が外国に移動してしまったり、加害者に日本国内で支払い能力がない場合、被害者が救済されない可能性が高いからである。
慰謝料支払いのアメリカ国内法上の根拠は、「外国人請求法(Foreign Claims Act)」である。これは、米軍関係者が公務と関係なく外国で起こした事件でも、加害者による被害者への賠償がなされないまま放置した場合、住民感情が悪化し、米軍の安定的な駐留が困難になりかねないことから制定された法律である。この法律では、慰謝料を支払う対象の要件に、米軍との雇用関係の有無は入っていない。
おそらく、世界的には、軍属ではない請負業者の従業員による事件の場合、アメリカ政府が慰謝料を支払うことは原則として行っていないのだろう。その原則を崩して日本で支払えば、米軍が駐留する他国でも支払いを求める声が上がることを懸念しているのかもしれない。
しかし、シンザト被告は事件当時、まぎれもなく軍属の地位を与えられていたのであり、この「ボタンの掛け違い」は日米両政府の長年にわたる不作為の結果である。であれば、日米両政府の責任で、被害者遺族への補償を行うべきだろう。
そして、今後このような混乱が生じないよう、日米地位協定を改定し、軍属の定義を「国際標準」に合わせて、原則として米軍に雇用されている者に限定すべきだ。