ボランティアに支えられている
任せておいて大丈夫じゃないから、国会審議を「監視する」
大学で教鞭を執る上西さんが、国会審議と深く関わっていくことになるのは、17年の春先。当時は、職業安定法の改正について審議が行われていた。上西さんは、労働問題の専門家として衆議院での参考人意見陳述の依頼を受ける。法案の詳細を調べていくと、改正には問題があることがわかってきた。陳述の際に問題点を指摘すると、翌日には、その指摘をもとに国会で野党議員が追及してくれた。そこで、上西さんは陳述後も法改正についての論点整理と省令に入れ込むべき内容を、ネット上で公開し続けた。
──そこから、政治に関わる発言が始まったのですね? 発言を始めてプレッシャーなどはありませんか?
国会という場で発言することへの、緊張はありました。でも陳述の機会をいただき、論点整理の記事を発信し続けていたら、それを野党の議員さんが質疑に生かしてくれて、最終的には改善点を盛り込んだ省令・指針につなげることができた。国会審議をちゃんと追って、論点を整理し指摘することに意味があるのだという手応えがあったんです。ただし、法案提出後では、法案そのものに変更は加えられないという限界も同時に感じました。
私がその後も法の制定プロセスに関与することにしたのは、全労連の雇用・労働法制局長である伊藤圭一さんの姿に学んでのことでした。伊藤さんは、おかしな法案が成立しないようにするため、厚労省などが行う検討会や労政審(労働政策審議会)の段階から傍聴して、法の制定プロセスがどういうふうに進むのか「監視」していらっしゃいます。
それまで私は、法案がどのように準備され、提出され、成立するのか、どういうプロセスを踏んで制定に至るのかということもよく知らなかった。そもそもプロセスを追うという発想もありませんでした。でもそれではダメなんです。法案提出の前の段階から追っていないと問題に気づけないし、関与もできません。
私達は、社会が正常に回っているうちは、一つ一つのことに問題意識を持たずに政府や政治家に任せていて大丈夫なわけです。でも、法制定のプロセスが崩壊している今だからこそ、そのプロセスの一つ一つに関心を持たざるを得ない。「報じられなければ知らない」というのでは危険すぎる。任せておいて大丈夫じゃないことに気づいたのです。
自分でも、まさかの国会デビューでしたが、このときの経験が「国会PV」につながっています。私の出発点です。
──その後、「裁量労働制」に関する答弁の根拠データの問題を指摘し、労働の専門家としてメディアからも注目が集まりました。
「働き方改革」について、世間の関心が一気に高まったための結果なら、危機感を共有するチャンスです。メディアの取材依頼はすべて受けました。
一方で、「安倍政権と対峙してしまった!?」とも。でも、不誠実な国会審議を許してはいけない、事実の捏造を許すわけにはいかないと強く思いました。これは学者の意地です。ここで引いたら学者人生が終わるな、と。SNSやリアルで応援してくれる人たちの声に支えられながら、肚をくくったという感じですね。
自分たちが楽しんでいるから、人が立ち止まって見てくれる
政治家や官僚が巧妙な論点ずらしの国会答弁を行う様を、「朝ごはん」をめぐるやり取りに例えた(パンを食べたと言いたくないために「ご飯(お米)は食べておりません」と答える)「ご飯論法」は、2018年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれた。上西さんのSNS 上での発信を受けて、ブロガーの紙屋高雪氏によって命名されたものだ。
12月1日には、「国会PV」の「第2話 働き方改革―ご飯論法編―」が完成。第2話は、安倍首相と加藤勝信前厚労大臣の答弁を1つずつ取り上げ、字幕なし映像と「ご飯論法」で答弁している箇所を示した字幕あり映像を見比べて、「ご飯論法」を見破るコツを学ぶという作りになっている。
──「ご飯論法」がこんなに話題になるとは、驚きです。
SNSを中心に広めてくれた方々のおかげだと思います。ニュースで流れる国会審議の場面は、ごく一部の答弁が意図的に切り取られてしまうので、どういう議論が行われているのかがわかりません。ありのままのやり取りを見ることで異常さに気づいてほしいし、私たちは「ご飯論法」でだまされ続けていることを知ってほしいと思います。例えば、「セクハラ」という言葉が周知されることで、そうした行為が抑制されるのと同じように、「ご飯論法」という言葉によって、国会で横行している「論点ずらし」の抑制につながることに期待したいのです。「ご飯論法」は、答弁の不誠実さを理解するための補助線になるもの。国会のおかしな実態を言葉で可視化したのが「ご飯論法」、映像で可視化したのが「国会PV」です。本当は、こういった言葉や活動を必要としない社会が理想なんですけどね。
──上西さんにとって「国会PV」とは何ですか。
国会を「監視する」取り組みであり、表現行為です。初開催に向けてメンバーとSNS 上で怒涛のやり取りをしていたとき、私は「場所の使用許可は取らなくていいんだろうか?」と疑問を投げかけたんです。違法性を咎められたらどうしようって不安に思ったから。それで弁護士の方に立ち会ってもらうことにしたんですが、路上での言論の自由、表現の自由、集会の自由を、実際の行動を通じて守っていくこと、実現していくことが大事なんだと、その後、メンバーの一人である映像作家の横川圭希さんから教えられていくことになりました。
アルバイト先で不当な目に遭った経験について授業で学生に尋ねると、彼らはよく「でも不満を口にしたら人間関係が悪くなるから」と言います。「みんなまずそこを気にしちゃうんだよなぁ」とこれまで感じていたのですが、何かやろうとするとき、自分も公権力から睨まれることをまずは気にするんだなと、笑っちゃいました。
ネット上で記事を発信しても、問題意識が広く共有されなかった頃、大手メディアはなぜもっと報じてくれないのだろうと納得がいきませんでした。でも、既存の枠を自分から出てみたら、自分にできる新しい表現手段があることがわかりました。枠組みから一歩出ると、状況は変わるんですよね。