従来、2~3年に一度行われる「サンプル入れ替え」や「ベンチマーク更新」の際には、必ず「遡及改定」は行われてきたにもかかわらず、です。
内閣府は2018年度のGDP統計を作成する際、「雇用者報酬」算出のもとになる毎月勤労統計の平均給与額(名目賃金)について「遡及改定」をしています。「ベンチマーク更新」などで発生した数値のブレは実際の変動を示すものではなく、それによって賃金が増えた、減ったなどと判断してはならないものだからです。実は内閣府は、厚労省に対して、遡及改定作業を行うよう要求もしていましたが、厚労省は、データ利用者からの道理ある要求を頑なに拒んだのです。
野党は、こうした厚労省の姿勢を踏まえ、次善の策として「サンプル入れ替え」や「ベンチマーク更新」の影響を受けないように集計される「共通事業所」(たとえば、17年3月と18年3月両方で、調査対象として抽出された事業所のこと)の統計に着目し、物価変動を加味した実質賃金指数も示すことで、実際の賃金変動の参考にすることができるのではないかと提案しています。
これに対し、厚労省は、この提案について、共通事業所は倒産や廃業をしていない優良企業であり、新規の事業所のデータも反映されないため賃金が高めになるなどの理由を挙げて否定。19年2月に「毎月勤労統計の『共通事業所』の賃金の実質化をめぐる論点に係る検討会」を立ち上げ、結論を夏頃に先延ばししています。
不正統計の結果で上振れしている賃金指数では、2018年平均の名目賃金は+1.4%、実質賃金は+0.2%となりますが、「共通事業所」の賃金指数で見ると名目は+0.8%、実質は-0.3%となります。「実質賃金は本当はマイナスではないのか。アベノミクスは失敗しており、消費税増税を行う情勢ではないのではないか」といった声が上がることをおそれ、厚労省は「共通事業所」の指数を使うことを拒んでいるのではないかと疑われます。
政治による統計への介入疑惑
賃金の「上振れ要因」を追及していく中で、野党6党1会派(当時)は「2015年問題」に突き当たりました。「日雇い労働者外し」(18年~)、「中規模事業所のサンプルの部分入替え」(18年~)、「ベンチマーク更新」(18年)、「サンプル入替えとベンチマーク更新の時の遡及改定の中止」(18年~)は、すべて2015年に決められていて、野党議員はそのプロセスに、官邸や経済財政諮問会議による調査手法への介入が疑われる経過があったことを発見したのです。これは既に見てきた当初の不正調査とは別問題で、統計の専門家からは「問題の本質を見間違えた追及」と酷評されているものですが、筆者はこちらも重要な問題だと考えます。独立した専門家が客観的で信頼に足る統計を作ろうとしても、それが政治圧力で歪められていくようでは、話にならないからです。以下で2015年の流れを簡単に振り返ってみましょう。
15年6月、厚生労働省は「毎月勤労統計の改善に関する検討会」を開始しました。8月段階での同会の有識者の結論は、「従来どおり中規模事業所のサンプルは全数入れ替えとし、発生したギャップの遡及改定も行う」というものでした。ところが、その後、事態は急変します。9月4日、厚労省の課長補佐が、検討会座長の阿部正浩中央大学教授に対し、検討会の結論を「官邸関係者」に説明しているとメール。8日には「部分入れ替え方式」を提案される可能性があるため、従来どおりの調査方法とするという結論は「あえて記述しない整理にしたい」と打診。14日には「委員以外の関係者」から「部分入替え方式で行うべきとの意見が出てきた。報告書(案)ではなく、中間的整理(案)の議論ということでとりまとめをおこなわせていただきたい」と通告。そして9月16日の第6回検討会に阿部座長は欠席し、サンプル入れ替え方式は「引き続き検討」とされ、以降、二度と検討会は開催されないという事件が起きていたのです。
厚生労働省の検討会で有識者がまとめかけた結論を、このように変えさせたケースは見当たりません。何が起きていたのか。そもそも検討会が開始された背景には、3月に中江元哉首相秘書官(当時)が厚労省に対しサンプル入れ替え方式とギャップの遡及改定について改善を申し入れていたことに関係があるのではないか。そして9月4日以降のプロセスには、前日3日の参議院厚生労働委員会で、安倍首相が毎月勤労統計調査の6月の平均給与額が対前年比マイナスであったことから、経済政策の失敗では?と質問を受けていたことが関係しているのではないか。これが、いわゆる官邸の統計介入疑惑です。
厚労省が結論を中断して以降、この統計方法の議論は経済財政諮問会議で取り上げられます。10月16日の第16回会議で、麻生太郎財務相が毎月勤労統計の平均給与額のギャップの遡及改定を問題視。11月4日の同会議では、黒田東彦日銀総裁が「名目賃金のマイナスは統計上のサンプル要因が影響」と発言、伊藤元重東大大学院教授は「課題のある個別統計を見直すことは非常に大事」と統計手法の変更を求めます。それを、高市早苗総務相が「実体経済をより反映した統計の検討をしっかり進める」と受け、サンプルの入れ替え方式変更を決めてしまいます。
そして15年12月の統計委員会で、西村清彦統計委員長が「財政諮問会議での議論は非常に重い」とし、「ギャップの遡及改定をしない方法」が決定されたのです。
信頼に足る公的統計を確立するために
2019年の国会質疑には、15年当時の首相秘書官や統計情報部長らも呼ばれています。当初は、野党の質問に対し「記憶にない」を連発しました。しかし、先に紹介した生々しいメールが明らかとなるや、首相秘書官は「首相の指示はない、自分の思いを述べただけ」、統計情報部長は「自らの意思で決めた」と答弁。首相の関与を否定しました。安倍首相も、状況証拠をもとに迫る野党の追及に対し、「統計をいじってアベノミクスを良くしようとしている、そんなことできるはずがないじゃないですか」と答弁。統計への政治の介入を否定して、焦点を当初の不正調査に限定し、厚労省職員のミスや職務怠慢、幹部の監督不行き届きの問題に矮小化させ、「再発防止への努力」で逃げ切ろうとしています。
抽出調査にしてしまうと誤差が大きくなり、母集団の特性を反映できなくなる
飯塚信夫神奈川大学教授は2019年3月14日に行った日本記者クラブでの講演、「統計不正問題の深層~毎月勤労統計問題とは何だったのか」において、「大規模事業所については復元すれば、標本調査でも良いとの意見は間違い」と明言。トヨタ自動車が選ばれるか否かで調査結果はかなり変わるということを考えてみればわかる、と説明されています。
賃金指数
平均賃金の時系列の変化を見やすくするため、毎月勤労統計では、ある年度(基準時)の平均賃金を100とする指数で各年度の賃金水準を示しています。この指数を「賃金指数」といいます。
30~499人の中規模事業所について
30~499人規模の事業所については、2017年までは2~3年ごとに対象事業所を全部入れ替えていました。これを18年、19年は各年に2分の1ずつ入れ替え、20年からは毎年3分の1を入れ替えていく方法にすることが統計委員会で決められていました。
日雇い労働者外し
「日雇い外し問題」は19年2月12日の、衆議院予算委員会で小川淳也議員(立憲民主党会派)が論点として取り上げ、追及しました。4月11日の衆議院総務委員会で同議員の質問に対し、厚生労働省は、常用労働者の定義変更があった事業所群となかった事業所群が併存した17年12月、18年1月のデータを使い一定の仮定を置いたうえで試算を行った結果、現金給与総額の影響について特段の方向性は認められないと答弁しましたが、その試算方法には疑問が上がっています。
「サンプル入れ替え」や「ベンチマーク更新」の際には、必ず「遡及改定」は行われてきた
毎月勤労統計調査のサンプル入れ替えは2~3年ごとに行われてきました。過去30年、11回のサンプル入れ替え時を振り返ると、9回はマイナスのブレ、2回はプラスのブレが発生している。15年1月には-2932円、-1.1%のギャップが生じており、これについて、従来どおり遡及改定の措置が行われ指数の接続がなされていました。