公共とは「みんなのもの」
文化庁による補助金不交付の決定は、「公共性」という観点から見て、その手続きにも大きな問題がある。
そのことを論証するために、まずはそもそも「公共とは何か」ということについて、考えてみよう。
「公共」とは、平たく言えば「みんなのもの」という意味である。
たとえば公園は、公共性の高い「みんなのもの」である。したがって誰でも入れるし、特別な理由がない限り、その場から排除されたりしない。そしてその運営には、「みんなのもの」である税金が使われる。
しかし公園が民間に払い下げられ、私有化(私物化)されたらどうなるか。所有者の気持ち一つで、入場料を徴収したり、入場の条件を決めたりすることができる。一般人の入場を禁止し、自分や近親者だけの空間にすることもできるだろう。しかしその場合、運営に「みんなのもの」である税金を使うことを正当化できなくなる。
あいちトリエンナーレのような芸術祭に「みんなの税金」が使われるのは、芸術祭が「私物」ではなく「みんなのもの」であり、公共性が高いとみなされているからである。そしてそのような公共的な文化事業に税金を使うための法的根拠は、日本国憲法第25条に求められるだろう。
<憲法第25条>
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
憲法に定められているように、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」わけだから、国には、国民があいちトリエンナーレのような芸術祭に入場したいと望むなら、入場できるような環境を用意する責任がある。したがって国は補助金を出し、入場料を低く抑える努力を支援することで、市民が芸術祭へ入場するためのハードルを下げるわけである。
では、そもそもあいちトリエンナーレのような芸術祭を、税金を投入すべき公共性の高い「みんなのもの」であると評価・認定するのは、いったい誰なのであろうか。
先進国では、その評価・認定は政府が行うのではなく、「アーツカウンシル」と呼ばれる外部の専門家委員会に委ねられるのが通例である。なぜなら政府が直接認定を行ってしまうと、政府による芸術作品の恣意的な選別ないし事実上の検閲が行われやすくなり、客観性や公正さが担保しにくくなるからだ。実際、アーツカウンシルの仕組みは、ナチス・ドイツが芸術を政治的に利用した事実を踏まえて、イギリスを中心に発達したものである。
あいちトリエンナーレへの補助金も、そのような考え方と手続きに沿って、交付が決まっていた。具体的には、「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業(文化資源活用推進事業)」の外部審査員6人の審査を経て、2019年4月25日付でトリエンナーレを含む26件の採択が決まった。そのうえで愛知県は5月30日、補助金交付申請書を提出し、文化庁は受理していた。
したがって文化庁が補助金交付を取り消そうとするなら、当然、交付を採択した外部審査員らに再審査を委ねるべきであった。審査員を通さずに補助金交付の可否を政府が決めてしまえるなら、外部審査員の存在自体に意味がなくなり、文化行政の根幹が崩壊してしまうからである。
外部審査員を務めた野田邦弘鳥取大学特命教授は10月2日、文化庁に外部審査員を辞任すると申し出た。野田教授は朝日新聞に対し、「一度審査委員を入れて採択を決めたものを、後から不交付とするのでは審査の意味がない」「理屈は後付けだと思う。そもそもやり方がありえない」「外部の目を入れて審査し、採択したあとに文化庁内部で不交付を決めるというやり方が定着してしまわないか、危惧している」とコメントしている。
また、共産党の本村伸子衆議院議員が文化庁に不交付決定のプロセスを問い合わせたところ、文化庁は1日、「あいちトリエンナーレへの補助金不交付を決定した審査の議事録はございません」と文書で回答している。
このような政治的案件を、官僚だけで決定することはありえない。宮田亮平文化庁長官か萩生田文科相、あるいは安倍首相が決めたものであることが疑われる。
ここで強調しておきたいのは、補助金交付の可否を外部の専門家委員会に委ねる仕組みは、「みんなのもの」である税金を「みんなのため」に使うために発達してきたということである。つまりそれを無視して独断で決めようという動きは、「みんなのもの」である税金を「自分のもの」にしようとすることに等しい。
実際、今回の論理も手続きも議事録も欠落した補助金不交付の決定は、「決定者による税金の私物化」以外に形容のしようがない。脅迫者への加担という問題に鑑みれば、「表現の不自由展」が中止されたからといって、それに対する補助金約420万円を不交付とすることも不適切だが、トリエンナーレ全体に対する7820万円を不交付とするに至っては、あまりにも恣意的で論理性を欠いている。決定者は「みんなのもの」である税金の使い道を、自分の感情や気分によって独裁的に決めたと言えるのではないだろうか。