宇野 思い出してください。『民主主義とは何か』では、古代ギリシアから話を始めています。古代ギリシアってすごいなと思うのは、「話し合いに基づいて政治を決める社会」を徹底したんですよね。奴隷はいたし、女性は参政権がないとか大きな問題もあるんですが、少なくとも男性市民に関してはすべての市民が集まって発言するのが重要だったんです。
「イセゴリア」という言葉が当時ありました。自分で声を上げる。発言する。それを人に聞いてもらう。その上で決まったことは自分の考えどおりとは限らなくても、自分も声を上げ、議論に加わり決めたんだから、責任を持って従うというシステムのことです。僕は、これが民主主義の「原型」だと思うんですね。
和田 「イセゴリア」を宇野先生の本で読むと、「平等な発言権 」とありました。誰もが等しく発言する権利を持つことですね。
なるほど、イセゴリアな古代ギリシアが民主主義の原型で、しかし、民主主義は多数者の声ばかりが大事にされるのでダメダメだと悪口を言われ続け、やっとトクヴィル君の時代に身の回りの問題を自分で解決して自信をつけて生きていく! こと。それが民主主義だ! となってきたんですね。簡単に言うと。
宇野 あと、もう一つ。近代になってからは議会ですね。
和田 あ! 議会制民主主義ですね。
宇野 議会を開いて、議会の力で王様に対抗する。これはこれで大切なことだと思いますが、元々の起源は身分制議会で、貴族や聖職者の代表が集まって王権を抑制するという趣旨でした。それが後に、議会は国民の代表なんだと読み替えることによって、これも民主主義だとしました。でも、選挙で議会へ代表者を送り出し、その代表者が議論して決めるって本当に民主主義なのかな、と思いませんか? 古代ギリシアでは、自分も議論に参加して納得することが民主主義でした。それが投票だけをして代表者を決めても、リアリティを感じることが難しいですね。僕らは今日、民主主義と言うと、選挙だ、議会だとしていますが、自分たちの力で社会を変えている、社会を動かしているという実感があるかと問われたら、ないでしょう?
和田 ないですね。だから選挙に行かない。投票率はどんどん下がるばかりです。
宇野 行かない。「あなたの声を代表している」と言ったって、自分の意見なんか誰も聞いちゃくれないと感じる。なのに、自分はなぜ社会のことを考えなきゃいけないんだ? と感じるのも無理はない。
トクヴィルも古代ギリシア的な民主主義なんか、近代社会にはないと思っていたのですが、意外なことにアメリカの田舎町に見つけられた。だから地方自治こそが、民主主義の古代のイメージを継承していると言えるんですね。選挙とか、政党とか、議会制というのは、必ずしも民主主義というものの肌触りや手応えみたいなものを伝えていない。普通の人が民主主義というものに対して「そうだ!」と思える機会があるとすれば、やっぱり地方自治が大事になります。そして、僕が理屈でそう考えてきたことを実践している人たちに、「チャレンジ!! オープンガバナンス」で、大勢出会えたんです。
和田 宇野先生は「チャレンジ!!オープンガバナンス」に出合って、身近な問題を自分たちで解決する力こそが、民主主義の可能性だと実感されたんですね。まるでトクヴィルがアメリカで「タウンシップ」に出合ったときのように。
宇野 実感しました。ですから、今回の本でようやく、民主主義を語る言葉にリアリティが出たんじゃないかなと思います。
民主主義の言葉とリーダーの在り方
和田 『自分で始めた人たち』の中に、里親制度の子育て支援をしていく女性が、自身がリーダーになるかならないか悩むエピソードが出てきます。民主主義とはみんなで話し合って決めるものだとしたら、リーダーというのは必要なのか?と、ふと疑問に思いました。もちろん総理大臣とか区長とか、どこにでもリーダーはいるんですが。民主主義におけるリーダーとは、何だろう?と。
宇野 非常に難しい質問ですね。民主主義にリーダーは要らないという考え方もあると思います。ですが、僕は民主主義とリーダーを立てることは別に矛盾しないと思っています。なぜかというと、みんなが発言したいとなると当然、議論が混乱しますよね。みんなに発言の機会を与えるようにするのが、リーダーの大切な役割です。古代ギリシアについて研究したフィンリーという歴史家がいるんですが、彼いわく、古代のギリシアの政治リーダーって今に比べるとたいへんだったというのです。
和田 どうしてですか?
フィンリー
サー・モーゼス・フィンリー。1912年5月20日 - 86年6月23日。アメリカ合衆国出身の歴史学者。専門は古代ギリシア史