「野党、いましかないだろ!」
当時、野党は激しい再編を繰り返しており、それが有権者に期待と不安を抱かせていた。9月25日、小池百合子東京都知事は、国政政党「希望の党」の結成を宣言した。28日にはそこに民進党が合流すると所属議員の全会一致で決められた。26、27日に行われた緊急世論調査では、希望の党の支持率は13%を記録し、さらに無党派の投票先では自民党を上回っていた。総選挙実施の風が吹くなか、与党に投票すると答えた人の合計は38%、野党と答えた人は合計29%と、政権交代の可能性もささやかれる情勢が生まれていたのだ〈以上、朝日新聞世論調査〉。
ところが、希望の党に先行合流していた細野豪志らが、総理経験者やリベラル系議員を排除したことにより、民進系議員は四分五裂に陥る。総選挙では新たに結成された「立憲民主党」(17年10月結党)が日本共産党、社民党、自由党との協力により躍進するものの、17年末には希望の党は支持率1%台の泡沫政党に転落し、後継政党である「国民民主党」が18年5月に結成された。立憲、国民どちらにも行かないグループも生まれ、旧民進党勢力はこの大分裂の後遺症に苦しめられていくことになった。
以後、19年7月の参議院選挙までの間、野党連合はこの分裂の傷を修復しつつ、よりリベラルな方向を目指して歩むことになった。安倍政権による切り崩し、相次ぐ保守系議員の脱落に苦しめられながらも、復活のための拠点を探す長い道のりがはじまったのである。参院選の審判を前に、野党連合は、反攻のための拠点にたどり着くことができたのだろうか。
沖縄の攻防
〈その1〉で述べたように2018年3月から4月にかけての危機を乗り切った安倍政権は、野党連合の陣地の各個撃破に乗り出す。6月の新潟県知事選で与党系候補が勝利したことで、残された野党連合の拠点は沖縄のみとなった。
米軍普天間飛行場の辺野古への県内移設に反対し、保守・革新を超えて結集した「オール沖縄」勢力は、14年に翁長雄志県知事を誕生させ、14年の総選挙では沖縄の4つの小選挙区で勝利し、16年の参院選でも勝利しと、着実に地盤を固めているかに見えた。ところが18年に入ると、オール沖縄は名護市長選で敗北、8月8日には翁長知事が逝去し、9月30日に前倒しされた沖縄県知事選の行方に暗雲が垂れ込めた。安倍政権はこの知事選で勝利し、野党連合の息の根を止め、辺野古への基地移設と総裁選での安倍三選を確実とすることを狙っていた。さらにこの選挙は、辺野古基地移設と同じように、世論で反対あるいは消極的意見が強い憲法改正国民投票を勝ち抜くための前哨戦にも位置付けられていた。
オール沖縄は、翁長知事が最期にやり遂げた「辺野古埋め立て承認撤回」の判断を守り抜き、県知事選で圧倒的な基地反対の民意を示し、基地移設阻止の活路を切り開かなければならなかった。安倍政権は、ひとつの地方選では異例の物的、人的動員をかけた。SNSを最大限に活用した「フェイクニュース」の拡散を行い、かつてない情報戦を展開した。
これに対しオール沖縄陣営は、野党統一候補・玉城デニーを擁立し、「新時代沖縄」のスローガンを掲げ、形勢を逆転させていった。そして玉城は県知事選史上最高得票で圧勝したのである。以後、オール沖縄は、市町村選挙、沖縄県民投票、衆議院補選で連戦連勝している(#1)。
この沖縄の一連の選挙戦は、挫けかけていた野党連合に再起の手がかりを与えた。選挙戦に多数の野党政治家、支援者が投入されていくなかで、沖縄では国政レベルに先がけて野党間の協力関係が強化されていった。野党間の分裂の傷は癒され、旧民進党系勢力は基地移設へのこれまでの曖昧な立場を捨て、全野党が反対の立場を明確にしていく。沖縄は、野党連合に来るべき反攻のための試練を与えた。以後野党連合は、選挙があるたびに沖縄に結集し、原点を確認していく。参院選告示直前の7月1日には、立憲民主、国民民主、共産党の党首が沖縄県庁前に結集し、結束と参院選の勝利を誓い合ったのである。
復活はなされたのか
沖縄の選挙戦で分裂の傷を徐々に癒しつつあった野党連合ではあるが、2019年5月までその姿は、国民の目には揉め事を繰り返す弱小勢力としか映っていなかった。野党連合の支持者には閉塞感が広がった。この閉塞感と、安倍政権がもたらす憂鬱さこそが、「第三極」ポピュリズム台頭の土壌となったのだ。4月の大阪ダブル選挙で圧勝した日本維新の会の躍進と、同月に立ち上がった山本太郎率いる「れいわ新選組」の登場である(#2)。参院選ではこの2つのポピュリズム政党が議席を伸ばし、野党連合はまたも沈没するのではないか。このような見方に、マスコミは「6月末まで」は傾いていた。
19年1月28日に開会された第198回通常国会では、与党により衆参予算委員会が3か月以上開催拒否され、野党連合は活躍の舞台を失っていた。この間、安倍政権、与党、そして2つのポピュリズム勢力により存在感を消された野党連合は、ふたたび地上に姿を現す機会を探る状態にあった。
もちろんそれまで、野党連合はただ手をこまねいていたわけではない。水面下では反攻の時に向けた結束の努力が着々となされていた。
野党間の連携の強化は、沖縄での動きと同様に、党首間の鳩首会談というよりも、地域レベルのネットワークのなかで進んでいった。その好個の事例は香川県だろう。16年参院選において、香川県は唯一共産党候補で野党一本化を果たした地域である。選挙では敗北したものの、ここで培われた信頼関係は、17年総選挙で民進系の小川淳也衆議院議員が希望の党から出馬したのに対して、共産党が対立候補擁立を見送ったことにつながる。のちに小川淳也は立憲民主党に合流し、19年の統一地方選では四国の共産党県議候補の支援にまわる。6月27日には参院選野党統一候補の支援を名目に立憲民主枝野幸男代表、国民民主玉木雄一郎代表を香川に招き、両党の結束を演出している。
この香川県だけではなく、同じような試みが全国で大小無数に行われてきた。東京都中野区では、市民らによる地道な仲介で18年区長選では野党統一候補を勝利させ、19年区議選では自公を少数派に転落させた。島根県では社民・民主系、共産党系別々で開催されていた憲法記念日の集会を、地元の牧師の尽力もあり共同開催している。東北地方では立場を超えて震災復興に一緒に取り組んだことが信頼関係を培い、野党間の協力を促した。そしてこういった協力関係をつくりあげる上で、全国各地での反原発運動、反安保法案のデモで培われた交流が礎(いしずえ)となった。草の根の連帯が野党間の壁を壊し、分裂を修復してきたのだ。
このように、野党連合は単なる政党間の野合にとどまらず、お互いの支援組織、支援者がより有機的に結びつき、選挙で全力を引き出せる体制が整えられてきた。
5月29日、野党間のハブである「市民連合」の協定書に、全野党が署名した。辺野古新基地移設の即時中止、消費増税凍結、原発ゼロ、最低賃金1500円を目指す、憲法九条改定反対という一致点(全13項目あり)は、全野党がよりリベラルな方向に転回されたことを明確にした。沖縄の攻防で培われ、全国の地域で育まれた経験が、ここで実を結んだのである。
野党連合がリベラルに転回しながら結束を固めていくなかで、立憲民主党もまた変化した。
#1
沖縄県知事選の展開については、以下で詳しく論じた。木下ちがや著『「社会を変えよう」といわれたら』大月書店、2019年、183-194頁。
#2
山本太郎の戦略については以下で論じた。木下ちがや『「山本太郎現象」を読み解く』〈論座〉2019年6月15日 https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019060400004.html
#3
立憲民主党の結成過程と「枝野ポピュリズム」については以下で論じた。前掲『「社会を変えよう」といわれたら』、151-154頁。
#4
ポピュリズムの背景と構造については以下で論じている。木下ちがや『ポピュリズムに抗し、ポピュリズムとともにあれ―都議会議員選挙の「騒乱の10日間」が示すもの』、〈ウェブイミダス〉、2017年9月22日 https://imidas.jp/jijikaitai/c-40-105-17-09-g695
2018年3月から4月にかけての危機
「働き方改革法案」関連で、根拠となる厚労省のデータに重大なミスがあることが発覚し、裁量労働制の対象拡大部分についての記述の削除を指示。さらに4月10日には朝日新聞により、15年に愛媛県と今治市の職員、加計学園の幹部が、首相官邸で柳瀬唯夫総理秘書官と面会した際の記録文書に、秘書官が「本件は首相案件」と述べたと記されていたと報じられる。これにより、「森友・加計疑惑」が再燃。さらに約一週間後には福田淳一財務次官がセクハラ発言で辞任。こういった出来事を指す。