外交面での独自路線
フランス第5共和制の下で、1995年に5代目の大統領に就任したジャック・シラクは、40歳代に首相となって以来、常にフランス政治の表舞台を歩んできた。ドゴール派の流れを引き継いだ保守政治家シラクは、2期12年の大統領在職期間中に、外交・安全保障政策でドイツと連携して欧州統合の先頭に立ち、99年の単一通貨ユーロの導入や、欧州憲法条約の策定などに、イニシアチブを発揮した。一方、2003年のイラク戦争では、開戦反対の姿勢を貫き通し、「フランスの栄光」を掲げたドゴール以来の自主独立路線を追求することで、フランス国民の伝統的な反アングロサクソン感情をすくい上げることに成功する。しかし、フランス国民は、イラク戦争反対を支持したものの、ドイツと連携して欧州統合の深化と拡大を図ろうとする彼の政策に、白紙委任を与えていたわけではない。東欧諸国の相次ぐ欧州連合(EU)加盟にともなう労働移民の増加や、産業基盤の東欧への移転によって、失業者が増大し、産業の空洞化が進む現象に、国民の不満は高まっていく。05年に実施された国民投票で、欧州憲法条約の批准が拒否されたのは、シラクの欧州統合政策に対する国民の不信感が、いかに根強いかを示した。
再選後の国内政策
国内政治では、就任1期目の国民議会(下院)選挙における敗北を受けて、社会党との保革共存政権を強いられ、1998年には、社会党の年来の主張であった、週35時間労働制が導入されるなど、社会保障や雇用政策などの国内政策で、思い切った構造改革に踏み切れなかった。だが、2002年の大統領選挙で再選を勝ち取ると同時に、下院選挙でも勝利を収め、保革共存政権に終止符を打つことに成功する。しかし、ラファラン首相の下で、週35時間労働制を見直して、産業競争力を強化する戦略を推進しようとしたが、時短運動を進める労働界から、週40時間労働制に逆戻りするものとの批判を浴びた。しかも、ラファラン首相の指導力の弱さも手伝って、規制緩和による雇用増大のもくろみは、思うようにはかどらず、労働移民の増大や、EUの拡大にともなう産業空洞化に直面し、失業者の増大に、国民の不満は高まっていった。
移民・若年労働者問題に苦慮
一方、北アフリカ諸国などからフランスに移民してきた労働者層の貧困や、若者の失業増大が、移民社会における不満を募らせ、05年秋に、パリを中心に騒擾(そうじょう)事件が全土に拡大するという事態が発生した。シラク政権は11月9日に、1968年の学生革命以来、38年ぶりに非常事態法を発動し、暴動の鎮圧を余儀なくされる。また、シラク政権は、移民増大にともなう国内社会の分裂という事態を克服できないまま、06年1月に、2年間の試用期間中に理由を明示せずに若者を解雇できる規定を盛り込んだ機会均等法を発表したことから、学生を中心に猛反発が全土に波及。3月18日には労働組合をも巻き込む形で、100万人を超える全国的規模のデモを誘発することとなった。結局、初期雇用契約(CPE)問題と呼ばれた機会均等法をめぐる攻防は、4月10日に政府がCPEを撤回する決定を下したことで決着を見た。これで、シラクの統治能力の失墜は決定的となる。
反移民感情の高まり
さらに、04年から05年にかけて、シラク政権の移民政策の宗教的色彩を浮き彫りにした宗教シンボル着用禁止法問題が浮上、シラク自らが音頭をとって同法が成立したことから、シラクの宗教観が国内の移民政策に投影されることとなった。この法律は、女性イスラム教徒のスカーフの着用も禁止するため、宗教スカーフ禁止法とも呼ばれる。これに対して、公教育の場における宗教差別を狙ったものとする批判が、内外から湧き上がった。この問題の背景には、増え続ける北アフリカや中東からのイスラム教徒の流入が、フランス人の排外意識を助長してきたという社会事情が伏在している。02年の大統領選挙で、右翼のジャン=マリ・ルペン国民戦線党首が、シラクと争う決選投票に残った一事は、フランス国民の反移民感情、とくに移民の大半を占めるイスラム教徒に対する反感と脅威感が、いかに強いかを示してみせた。このような反イスラム的な動向に対して、イスラム諸国はもとより、アルカイダのような過激集団からも強い非難が浴びせられ、イラク戦争反対時のシラクに対するイスラム世界の称賛が、敵意に転化するという、皮肉な結果をもたらした。
シラクの12年に及ぶ統治は、外交・安全保障政策の独立路線とは裏腹に、国内の経済・社会政策は矛盾に満ちた内容で覆われてきた、と総括することができよう。
ちなみに、シラクは私生活においては、日本の美術や相撲に愛着を抱く、大の親日家として知られている。