「心配事でいっぱい」の温家宝首相
2007年は、中国にとって、北京オリンピックを翌年に控えた年であるとともに、第17回共産党大会を秋に迎える重要な年である。中国は相変わらずの高度経済成長を維持し、否応なく世界に「中国台頭」の印象を与え続けている。しかしながら、全国人民代表大会(全人代)()が閉幕した3月16日、温家宝首相は、記者会見で「私の頭の中は心配事でいっぱいだ」と語り、「表面上は平和に治まり無事だと言っても、実は計り知れない悩みがあるものだ」と発言している。われわれはこれをどのように解釈すべきなのだろうか。
全体としてみれば、中国が発展し、様々な分野で存在感を高めていることは確かである。しかし、公式発表でさえも、民衆の暴動・抗議行動が05年だけで実に8万7000件(1日平均238件余り)に達しているように、中国社会の矛盾、不満は増大し、深刻化している。そうした矛盾の深刻なものとしては、①格差の拡大と農民大衆の困窮、②幹部をはじめとするエリートの腐敗、③大気・水質・地質汚染といった環境破壊、④エイズ、SARSなど感染症のまん延などが挙げられる。
とりわけ①②③は、共産党指導部がこの間強調している「和諧社会」の実現に直結する課題でもある。07年の全人代でも、キーワードは「和諧社会」であった。温家宝首相による「政府報告」では、「三農問題」が、「マクロコントロールの改善・強化」に次いで、2番目の重要課題に位置づけられていた。そこでは、「三農問題は『小康社会』の全面的建設と近代化事業の全局面にかかわる重大問題である」とし、「今年の課題は近代的農業の発展を加速し、社会主義新農村を着実に推進すること」であり、そのためには「農村経済の発展、農民の増収を図り……農民の意思を尊重し、農民の権益を擁護しなければならない」と力説している。共産党指導部が、農民を中心とした民衆暴動を、深刻に受け止めていることがわかる。
激しい抵抗を受けた「物権法」
そして、07年の全人代の目玉法案とも言うべきなのが「物権法」であった。その主なポイントは、①国家、集団、個人の物権(所有権)は法の保護を受け、いかなる組織や個人も侵害できない、②宅地の使用権は満期後も継続できる、③農地を収用する場合、農民に十分な金額を補償し権益を保障する、④農地の建設用地転用は厳格に規制する、⑤国有財産の損失を防ぎ、低価格で処分するなど損失を与えた場合は法的責任を追及する、ということであった。これは、共産党がこれまで否定していた私有財産権を認めたということであり、庶民の財産権が法的に保障されるようになったということである。では庶民は誰によって財産権を侵害されてきたかと問えば、多くの場合、彼らにかかわる宅地・農地・企業用地などを不当な形で取り立て、転売してきたのは、政治・経済のパワーエリートであった。
しかしこの物権法の審議・採択をめぐって、胡錦濤・温家宝指導部は、保守派・新左派勢力からの激しい抵抗を受けていたとも言われる。その典型的な主張のひとつは、この法律は、国有資産を不当に入手した個人の財産をも保護することで、国有資産流出を助長し、事実上腐敗を容認しているというものである。確かにこの点では、物権法が「隠れみの」になる可能性もある。
したがって、孫憲忠(社会科学院法学研究所研究員)が指摘しているように、物権法が、複雑な現実状況ゆえに複雑な過程を経て提出・審議されてきたことを踏まえ、物権法に付属する他の法律・法規を健全なものにし、財産権を保障する法律体系を、より成熟させていかなければならないだろう。彼はさらに、「物権法の採択は疑いもなく中国の法制史上の里程標である。だが財産権を保障する法律体系の構築が、中国では始まったばかりであることをはっきりと認識しなければならない」と、その意義と今後の課題の大きさを語っている。
再び問われ始めた「民主化」
「物権法」の提出・審議・内容などから見ても、またその背景となる不合理・不正・腐敗のまん延を考えても、つまるところ、中国が、1989年の天安門事件以来封じ込めてきた民主化の課題に、本気になって取り組まねばならない段階に入りつつあることを物語っている。2006年10月、「北京日報」が、胡錦濤のブレーンと言われる政治学者、兪可平の著書「民主は良いものである」に関連する記事を、1面トップで掲載したことが、国内外の専門家の間で話題になった。その後も、中国人民大学の謝韜・前副学長が「民主憲政だけが汚職腐敗問題を根本的に解決でき、民主社会主義だけが中国を救うことができる」と説いている。07年4月26日には、中国致公党副主席で上海同済大学学長の万鋼が、国務院(内閣)科学技術部部長(大臣)に起用された。1957年の反右派闘争で民主諸党派が打撃を受けて以来、非共産党系の人物が部長に就任するのは50年ぶりである。
胡温指導体制下で、水滴が落ちるように民主化が始まっているのかもしれない。いずれにせよ、どのような方向に向かい、いかにして民主化の道を歩み始めるのか。慎重な足取りではあっても、そのことが問われ始めているのである。
中国共産党大会
正式には中国共産党全国代表大会。党の重要な基本方針を決定する会議。5年に1回開催。
全国人民代表大会(全人代)
日本の国会に相当。任期は5年で毎年3月に開催。立法権、閣僚任免権、経済計画決定権などをもつが、共産党の決定追認の色が強い。
和諧社会
「和諧」とは調和のこと。都市と農村、国内発展と対外開放などの調和を重視する胡錦濤・温家宝指導部のスローガン。
三農問題
都市との間で深刻な格差が広がっている農業、農村、農民の問題を指す。
民主諸党派
1949年の中国建国時に、共産党とともに連合政府を形成した8つの党派のこと。中国致公党もそのひとつ。