好調な経済、慎重な政権
インド経済は好調を維持している。2007年5月に発表された前年度の経済成長率は、9.4%となり、2年連続で9%台を実現した。1991年の経済自由化以降の最高水準である。全体としてみれば、国内総生産(GDP)の6割を占めるサービス産業、なかでも国際的にも評価の高い情報技術(IT)やITサービス関連産業、そして携帯電話などの通信部門、さらには建設業などが成長の牽引(けんいん)車になっている。世界のなかでも、インドの経済成長率は、中国と並んで突出している。2007年6月にドイツのハイリゲンダムで行われたG8サミットでも、3年続けての招待国となり、核不拡散条約(NPT)への不参加にもかかわらず、アメリカは原子力技術と核燃料の提供で特別扱いをしようとしている。インドに対する国際的評価はすでに定着したと言ってよい。一見したところ文句の付けようのない実績にもかかわらず、インド独立60周年という歴史的な節目にあたる07年8月15日の恒例の独立記念日の演説では、国民会議派連合政権のマンモハン・シン首相は、実績の評価はそこそこに、教育、雇用、格差など今後の課題に多くの時間を割いた。インド人民党を中心とする前連合政権が、3年前の連邦下院選挙で、マクロ経済の好調さを「輝くインド」とうたって大衆の反発を招き、予期せぬ敗北を喫したことが、現政権にも重い教訓として生きている。だが、演説で首相が強調した課題をみれば、この慎重な姿勢が単に政治的配慮のみによるものではないことがわかる。首相が挙げた課題をつうじて、インド経済の中長期的な問題点を読み取ることができるからである。重要なのは次の3点である。
農業生産の停滞
第一に、より高水準の安定的な成長の必須条件は農業の発展である。近年の高成長を先導してきたのは、サービス業や製造業だが、農業をみると、このところ1年おきに好不調を繰り返している。最近の計画委員会のデータでは、1980年代半ば以降の20年間のうち、前半の10年は農業の平均年率成長率が3.62%であったのに対して、後半の10年はその半分、1.85%に過ぎない。これは人口の成長率とほとんど同じ水準である。農地の4割はいまだに天水依存である。仮に年率3%台でも着実な農業成長をとげれば、経済全体の高水準の安定成長が可能になる。インドの総人口の7割以上は、まだ農村人口であるが、農民の住宅のうち、レンガなどの耐久素材でできた(インドの言葉で「パッカー」な)住宅の比率はいまだに5割未満でしかない。これがBRICsインドの一つの現実でもある。シン首相は、「農村へのニューディール政策」と名づけて、農村部のインフラの充実、雇用の創出、そして農村金融の拡大に、本格的に取り組もうとしている。2009年の次期連邦下院選挙をにらんだ政策でもある。雇用の創出と高等教育の拡充
農業政策と並行して強調されるのは、雇用の拡大である。経済自由化以降、政府部門の雇用は縮小の一途をたどっている。問題は民間部門で、これだけの成長が続けば工場や事務所での雇用が増えてもおかしくないが、それが一向に増えない。わずか800万人の水準をなかなか越えられない(規模10人以上の事業所が対象)。「雇用拡大なき成長」と言われるこの現象は、インドの成長経済の一つの不可思議でもある。日本でもみられるような非正規雇用の拡大や、外注方式の増大、あるいはリストラのせいだとも言われるが、それらの要因が混ざり合っている。ここで政府が打ち出したのは、「経済特区」政策で、政府・公社が工場用地を取得して内外の資本を誘致する政策である。全国で、これまでに340件あまりの「経済特区」が承認されているが、いくつかの地域では、農地所有者からの反対運動が起こっている。最も激しいのは西ベンガル州の石油化学特区である。シン首相は、工業化は雇用創出の必須の条件であると独立記念日演説のなかで強調している。インドの民主主義の枠内で、政府による土地収用政策をどこまで進められるかが、カギとなろう。
雇用は、一定水準の教育を前提とする。インドのIT産業や理工科教育、果ては初等の算数に至るまで、日本ではインドの知的資源は実態以上にもてはやされている。だが、人材養成の中心にあるインド工科大学(IIT)などは、全国7カ所合計で、毎年の卒業生は4000人あまりにすぎない。インドの大学進学率は1割程度(世界平均23%)、大学生数は1100万人で、中国より100万人は少ない(人口当たりにすれば多いのだが)。350以上ある大学も、学生用の図書館といった基本的な設備や教育・研究の水準に問題が多く、毎年15万人前後がアメリカなど外国に留学してしまう。先述した独立記念日の演説で、シン首相が最も強調したのが、この高等教育の拡充である。30の国立大学、5つの科学技術研究所、20の情報技術大学の新設のほか、8つのIITと7つのインド経営大学(IIM)を増設し、大学進学率を20%にまで引き上げる。演説のなかで、これほどはっきりと数値目標を掲げた部分はほかにない。それだけ、持続的成長の条件としての人的資源の重要性が浮かび上がるのである。
シン首相の独立記念日の演説では、基礎教育や保健衛生サービス、さらには成長の果実を貧困層にまでいきわたらせる、いわゆる「インクルーシブな(包摂的な)成長」という政権の基本理念も、もちろん強調されている。競争相手としてインドが意識する中国との間には、所得水準もさることながら、むしろ、こうした社会指標の面での達成に、まだ大きな差があるのが現実でもある()。全体としての社会の底上げを通じて中長期的な発展を実現するという、成長と公正のバランスを追求するインド経済のさらなる挑戦に注目したい。