あらゆる分野で増殖する「闇市場」経済
北朝鮮は今でも餓死者が継続して発生している飢餓の国で、金正日総書記が「右向け右」と命じれば、洗脳されたロボットのような国民すべてが右を向く…そんな「北朝鮮イメージ」が、世界中で固定化しているように思える。北朝鮮が、世界でもまれに見る閉鎖的な社会で、そこに住む人々が権力による強い統制下におかれているため、「北朝鮮は変わらない」という先入観が根強いためであろう。実際の北朝鮮はというと、この10年ほどの間にすさまじい変化を遂げている。まだ生活は厳しいとはいえ、餓死者続出という状況はなくなった。それどころか、大都市部では住民の3分の1が三食白米を食べられるようになった所もある。国有住宅を個人が勝手に売買することが当たり前になり、非合法な私的雇用も広がっている。都市部の若者は流行に敏感になった。多くの人がひそかに出回っている韓流ドラマを見ており、今や韓国はあこがれの国となっているのだ。
このような北朝鮮の内部事情を私に伝えてくれるのは、北朝鮮に住む取材パートナーたちだ。彼/彼女たちは「北朝鮮内部からの通信『リムジンガン』」という雑誌の記者の役割を担ってくれている。
リムジンガンの記者たちが伝える北朝鮮の変化は、市場経済のパワーによってもたらされたものである。といっても、労働党政権が改革開放政策を導入したわけではない。まして、金正日総書記による「お導き」の成果でもない。1980年代後半から国家計画経済体制が破綻に向かい、ついに95年ごろから、大量の餓死者を発生させる未曾有の社会混乱が起こった結果、民衆は生き延びるために勝手に闇市場を作り、政府の関与の及ばない経済活動の領域を拡大させてきた。この非合法の市場経済が、全国に拡大しながらありとあらゆる分野に増殖し、北朝鮮社会を変化させる原動力になっているのだ。
非合法の不動産業者まで出現
市場経済が増殖した根本原因は、2000万北朝鮮国民の衣食住その他のニーズを、国家計画経済が満たせなくなったことにある。この市場は、今や北朝鮮式社会主義の秩序を根本から揺らし始めている。その例として、まず不動産を見てみよう。北朝鮮では、住宅はごく一部の例外を除いて国家所有だが、この国有住宅が今、活発に売り買いされている。背景には50年代からずっと続く慢性的な住宅難がある。かつて都市部では、二世帯同居、一間をカーテンで仕切って二家族が使うということも珍しくなかった。一方でもっと広く、良い立地の所に住みたいという需要も潜在的にあった。90年代に入ると、食糧配給の途絶で飢えた人々が続々と家を手放し始めた。その結果、住宅の大量供給が起こったのである。今では、売りたい人と買いたい人が金額で合意すれば売買が成立する。もちろん、国家所有という法制度が変わったわけではない。役人にわいろを払って、使用者名義を変更するのだが、実態としては国有住宅の私物化と売買である。
水道や電気供給の条件が良く、駅や市場に近く、野菜を作ったり犬や豚を飼える庭の広い家が好まれる。逆に外見はいい高層アパートは、エレベーターもなく、電力難のせいで水道も出ないのでまったく人気がないという。清津(チョンジン)市や南浦(ナムポ)市などの都市の場合、場所が良くて二間と台所の平屋が、2000~3000ドルで売買されている。またかつて高級幹部用に建てられた広くて立地のいいアパートは、「1万ドルアパート」と呼ばれている。さらに、はなはだしきは、特権層らが金を出し合って、駅前などの一等地を役所に提供させ(もちろんわいろで)、新しく高級アパートを建てて、新興富裕層に販売している。そして、このような不動産の取引を専門的に仲介する「コガンクン」と呼ばれる非合法の不動産業者まで出現しているのだ。
家庭教師のバイトに走る先生たち
二つ目に注目すべきは私的雇用である。北朝鮮には民間企業はなく、成人は役人か軍人以外は公営企業に勤めることになるのだが、経済が破綻して大半の企業の生産活動は止まっており、食糧配給も給与もまともに出せない有り様だ。そこで人々は市場に出て商売をするほか、私的に労働力を売るという現象が生じている。例えば学校の教師。2000~3000ウォン(3000ウォンは実勢レートで約100円)の月給では食べていけないので、放課後に家庭教師をしたり、塾で教えたりすることが当たり前になっている。将来のためにと子供に中国語や英語、コンピューターを学ばせたいという親が増えているのだ。これも拡大する市場経済の中で、有利な位置を占めさせたいという心理だといえるだろう。個別の家庭教師にとどまらず、企業所の空き部屋を借りて多数の生徒を集める「地下学習塾」のようなケースまであるという。もちろん非合法だ。社会の教育ニーズに国家が応えられないために起こった現象だ。私的雇用が活発なのは縫製の仕事だ。今の北朝鮮は布地をほとんど生産できなくなっており、衣類は中国から既製品を輸入するか、布地を輸入して縫製加工する。衣類の商売人が、北朝鮮内で縫い子を組織し、布地と糸を与え、一着あたりいくらかの加工賃で縫製させるのである。集団でやると目に付くので、縫い子は家で作業をするが、働けば働くほど収入が増えるので、家族総出で作業するケースも珍しくないという。重労働職場の鉱山や炭鉱の採鉱現場職で月給が北朝鮮で最高の1万~1万5000ウォン程度だが、縫製の契約仕事では、ひと月に10万ウォン稼ぐことは珍しくないという。
このような非合法な私的雇用がどの程度広がっているのか、統計もなく把握は困難だが、ほとんどの人が公式の給料と配給では食べていけない現状では、商行為も含めると労働人口の半数以上が、北朝鮮式の公的な労働雇用制度から逸脱していると思われる。もちろん、私的雇用や市場には労働党組織はない。あらゆる職場で党による指導・統制を受けるという制度にも穴が開いたわけだ。
情報の流入で急速に変わる意識
市場経済の増殖は、タブーだった外部情報の流通をも促すようになった。そのひとつに「流行」という情報がある。北朝鮮当局は「資本主義の退廃文化を排撃し、我々式社会主義の風俗を守る」として、国民の服装や髪型を強く統制してきた。しかし、北朝鮮で衣類や雑貨を作ることができなくなると、中国製品が市場を席巻するようになり、日本や韓国とさして変わらない‘資本主義的’なデザインの服やカバンや靴が入るようになってきた。若者が流行に敏感なのは北朝鮮も同じで、体の線がわかるぴたっとしたズボンや、ノースリーブのシャツ、厚底サンダルなどが最近流行している。かつて敵性語として禁じられていた英語のロゴ入りの服などは、とがめる人もいなくなったという。外部情報流入の極めつけは、韓国のトレンディードラマだ。中国で不法にコピーされた韓流ドラマのCD-ROMが北朝鮮に持ちこまれて、闇市場で爆発的に流通しているのだ。もちろん北朝鮮当局は、「不純録画物撲滅」キャンペーンを繰り返し行って取り締まりを強めているが、いかんせん、取り締まる側の警察官たちも韓流ドラマは見たい。摘発は徹底できておらず、今や、都市住民のほとんどは一度や二度は韓流ドラマを見たことがあると思われる。このように、北朝鮮国内には、人の好奇心に根ざした「情報の市場」が育っており、金正日政権がもっとも警戒していたはずの韓国の映像が、厳しい情報統制の壁を乗り越えて大量に流通するという事態が起こっているのである。それを可能にしたのも、やはり市場のパワーであった。
下からの市場経済の急速な増殖と、外部情報の流入によって、北朝鮮式社会主義の基本秩序は揺らぎ始めている。また、北朝鮮の人々の意識も急速に変わっている。
リムジンガン(臨津江)
北朝鮮の実情を、そこに暮らす人々自身が取材した記事を掲載する季刊雑誌。アジアプレスの石丸次郎などが、中朝国境で出会った北朝鮮在住者らとともに、2008年4月に創刊。北朝鮮の記者は大学教員や貿易会社の社員などで、原稿は協力者によって国外に持ち出される。ウェブ配信版もある(http://asiapress.org/rimjingang/)。