華やかなオリンピック絵巻に垣間見える矛盾
北京オリンピックの開会式・閉会式で繰り広げられた華やかなマスゲームの絵巻物を通じて、中国に対する印象を大きく改めた人は多いかもしれない。北京オリンピックに先立つチベット・新疆ウイグル自治区での混乱や、深刻な環境・格差問題は、中国がオリンピックを開催する国としてふさわしいのかという疑念を国際社会において広く呼び起こした。それだけに中国は、質と量の両面で完璧な大会運営を目指したのであろう。じつは、そんな華やかな絵巻自体に、中国が抱えてきた深刻な矛盾が横たわっており、演出を担当した世界的映画監督・張芸謀すらそこから逃れられなかった。マスゲームに現れた活版印刷や羅針盤などの発明や、礼儀による政治を唱えた孔子の教え(儒学)は、「悠久の大国」イメージを打ち出すにはたしかに都合が良い。しかし、列強の侵略や混乱・貧困にあえいだ近代中国の人々は長らく「なぜ偉大な文明を創った我々は転落したのか?」と苦悶してきた。日清戦争で日本に敗れた19世紀以後、つい最近中国経済が急拡大するまで、「文」と「礼」を重んじる中国文明の伝統は、往々にして停滞の象徴・克服の対象だったのである。
そんな葛藤抜きには語れない「中華文明」が、何故いまやオリンピックの晴れ舞台を通じて美化されたのか? それもまた、中国が近代史を通じて抱えてきた矛盾が余りにも大きいものだからである。「文」と「礼」の中国文明は、格差や矛盾にまみれた社会を少しでも改め、荒波立つ冷戦後の国際社会の中で自尊心を保つうえで、お手軽なシンボルとして再浮上した。そして1990年代半ば以降、「愛国主義教育」と経済発展を通じて、にわかに「強国の夢」が実現したと信じ込む人々が急増した。そこで近年、「中華民族の偉大な復興」なる(戦前のドイツや日本を思い起こさせるような)スローガンが繰り返されている。オリンピックのマスゲームでも、中国という国家の担い手である「中華民族」を全面に押し出し、世界に向けてその団結力が執拗(しつよう)にアピールされた。
20世紀に発明された「中華民族」
では、「中華民族」とはどのような存在なのだろうか? 「中華」ということばは日本人から見て、漢字文明をつくった漢民族を連想させる。しかし中国政府の説明では、「中華民族」は漢民族だけではない。中国にはチベットやウイグルをはじめ、政府が認定するだけでも55の「少数民族」が存在し、彼らも「中華民族」の一員として中国の過去・現在・未来を担うとされている。オリンピックのマスゲームで、多種多様な民族衣装を着た人々が乱舞していたのも、彼らが「中華民族」として世紀の祭典を祝っていることを表現するためであった。そのようなイメージを通じて中国政府は、「漢民族と少数民族の関係では助け合いが主流である。中国の少数民族は各民族として独自でありながら、漢民族とともに血と汗を流し、いまや『中華民族』という実体をつくっている」と強調する。そして、「チベットやウイグルの問題はごく少数の『分裂主義分子』の企てに過ぎない。だから『中華民族の国・中国』では、民族問題は本質的な問題ではなくなった」と考える。
しかし、このような説明には無理がある。本来「中華」とは漢字文明の地を意味し、漢字を身につけていない人々は「夷狄=野蛮人」であった。とくに、独自の文字とチベット仏教・イスラーム信仰を持ち、「中華世界」とは異なる世界観の中で生きるチベット・モンゴル・新疆のオアシスに住むトルコ人(20世紀以後ウイグル人)は、漢民族とともに満州人の国家・清の影響力を受けていたとはいえ、決して「中華」ではなかった。
そこで日清戦争敗北後、漢民族が満州人を追い払い、明治日本をまねて漢民族の近代国家をつくろうとしたとき、少なくないエリートが将来連帯すべき存在として日本を想定し、チベット・モンゴル・トルコ人の清からの独立も当然と考えていた。その後、第一次世界大戦が「民族自決」を争点として戦われ、弱小民族の独立と連帯を唱えるソビエト連邦が誕生すると、その影響のもとで創立された中国共産党も「周辺民族の独立」を容認していた。
漢民族中心の論理に噴出する反発
ただ、近代国際政治の現実は、列強すら互いに食い合う優勝劣敗である。もし資源豊富な周辺民族地域の自立をみすみす認めれば、その地がことごとく他の列強に占拠され、中国は資源と国防上の最前線を失ってしまうという危機感が生まれた。そこで、本来「中華」ではない周辺民族を中国が支配することを正当化するために、彼らを「中華民族」の中の「少数民族」と位置づけ、彼らも『中華民族の一体性』に含まれる以上「民族自決」は許されないとした。しかし「中華民族」なるものが相変わらず漢民族中心の論理であることには変わりはない。そこで「少数民族」とされた人々のうち、自分たちで独立国家をつくることが十分可能だと考えているチベット・モンゴル・ウイグルの人々は強い不満を抱き、中国共産党・政府との衝突が繰り返されてきた。その他の、独立を主張しない「少数民族」も、漢民族の論理であらゆる物事が決まる現実に不満を抱いている。そしていまや、爆発的な経済発展の中で「中華文明」「中華民族の偉大な復興」が前面に押し出されるなか、強大化する国家権力によって「少数民族」の不満はいっそう封じ込められ、圧倒的な経済力で迫ってくる漢民族への従属を強いられている。このような中で「少数民族」はどう笑顔をつくれば良いのだろうか?
だからこそ中国政府は、漢民族の「サクラ少数民族」を動員してでも、北京オリンピックで「中華民族全体の笑顔」を演出しなければならなかった。しかも、海外から「サクラ少数民族」の問題を指摘されるまで、彼らがその異常さに気付かなかったところに、この国が抱える矛盾の底知れない深さがある。