平均月収8万円!
1997年のIMF危機以来の深刻な経済危機に直面する韓国で、ここ数年、「88万ウォン世代」という言葉が流行している。雇用情勢に改善の兆しが見られない不況下、大学を出ても正規職につけない20代の若者が急増。彼らがアルバイトや派遣労働など非正規職で稼げる平均月収が約88万ウォン(日本円で約6万円、日本の物価感覚でいうと8~9万円に相当)であることから、この言葉が生まれたと言われている。「88万ウォン世代」という言葉が韓国人の間でよく使われるようになったのは、盧武鉉政権末期の2007年8月、『88万ウォン世代』(ウ・ソックン、パク・コニル著:日本語訳は明石書店から09年2月刊)という一冊の本が出版されてからである。
同書は、韓国の若者たちが、過酷な受験戦争を勝ち抜いて大学に入り、就職に不可欠なTOEIC対策に多くの時間と労力をさいて大学を卒業しても、ごく少数の者しかまともな就職口を見つけることができず、非正規職にとどまり続けることを余儀なくされるならば、この国に未来はないと訴え、若者や彼らの親世代に衝撃を与えた。同書は瞬く間にベストセラーになり、「88万ウォン世代」は若者たちの間で流行語になった。
深刻な若者のワーキングプア問題を「88万ウォン世代」という言葉で代弁した同書は、07年12月の大統領選挙にも大きな影響を与えた。野党政治家やマスコミが、「88万ウォン世代」を、金大中・盧武鉉両革新政権下で進められた構造改革のゆがみとして取りあげるようになったからである。
事実、金大中政権時代(1998~2003年)の財閥解体や新自由主義的な構造改革を継承した盧武鉉政権(03~08年)下でも、系列企業の整理とそれに伴う正規職(正社員)の整理解雇が継続された。そのため、02年から07年の5年間に非正規職は100万人以上増加し、07年には非正規雇用者が賃金労働者の半数以上を占めるようになった。
大統領選の争点となった「88万ウォン世代」
こうした企業の人員整理は、大卒者の就職状況にも暗い影を落とした。先の大統領選挙が実施された07年の大卒者約25万人のうち、正社員として就職できたのはわずか48%、アルバイトや派遣社員など非正規職で働く20代は225万人に膨れ上がり、20代全体の53%を占めた(「朝鮮日報」07年11月22日)。かつて高度成長期に就職活動を迎えた維新世代(現在の50代)や386世代(現在の40代)は、有名大学を卒業していなくても、それなりの企業に正規職として就職し、家族を養うことができた。これから、安定した老後を迎えることもできるだろう。しかし、深刻化する経済危機で構造調整を余儀なくされた政府・自治体・企業が、部署や系列企業の統廃合を進め、人員整理とともに新卒者の採用を減らし続けたため、20代は、わずか5%しか官公庁や大企業に就職できなくなってしまったのである。
大統領選挙で、こうした先の見えない「88万ウォン世代」の心をつかんだのが李明博候補だった。19歳から39歳までの若年層が全投票者の44%を占めたこの選挙では、若年層の投票行動が当否を決めると言われ、すべての候補が「88万ウォン世代」の雇用問題に言及した。しかし、「まじめに生きてきた者が報われる時代」をスローガンに、747(7%成長、一人当たり国民所得4万ドル達成、世界7大強国入り)を目標にした経済成長で雇用を創出し、非正規職者の不安を解消するというバラ色の選挙公約を掲げた李候補が、「88万ウォン世代」をはじめとする若年層から圧倒的な支持を集め当選することになった。
失望に変わる李明博政権への期待
しかし、李明博大統領に対する「88万ウォン世代」の期待は失望に変わりつつある。李明博が大統領に就任した直後から、株安に不動産バブル崩壊などが加わり景気が大きく後退。世界同時不況による輸出の急減と内需不振で、韓国経済は通貨危機以来10年ぶりのマイナス成長を記録することになった。09年に入ってから新規就業者の伸びも急速に鈍り、雇用不安も広がっている。1月の就業者数は前年の同じ月と比べると10万3000人減っており、2カ月連続でマイナスを記録。なかでも20代の就業者数が20万人近く減少したことで、若年層の失業率は 8.2%まで高まっている(韓国統計庁「経済活動人口調査」09年2月)。
ただし、卒業後正規職につけないまま非正規職で生計を立てている若者、公務員を目指して大学卒業後も専門学校で受験勉強を続ける若者、就職難から故意に単位を落として大学に残る「5年生」など、事実上「半失業」状態にある若者は失業者指数に反映されていない。こうした「88万ウォン世代」とその予備群の存在を視野に入れるならば、韓国における失業者・半失業者の実数は統計上のデータをはるかに上回るだろう。
李明博大統領は09年2月、テレビで「雇用対策に全力を傾ける」ことを改めて約束したが、非正規職からの脱出を願う「88万ウォン世代」で、この言葉を信じるものはほとんどいない。大統領が掲げた選挙公約はいまだ何一つ実現していないからだ。非正規職で働く有期雇用者を2年を越えて雇う際、正社員への転換を義務づける「非正規職保護法」が、09年7月で施行2年目を迎える。政府は、負担を恐れる企業が2年未満で非正規職者との契約を打ち切ることを警戒し、転換期限を2年から4年へ延長する構えを見せている。これではいつまで経っても正社員への転換は実現しないわけで、大統領がこのような改悪措置を黙認するなら、「88万ウォン世代」の反発はさらに強まるだろう。
『88万ウォン世代』の著者の一人、ウ・ソックンは「日本の20代は困難であるとはいえ、韓国よりはるかにマシな環境にある」と述べているが、「非正規労働と派遣人生で地獄のただ中にいる」若者たちが置かれた劣悪な労働環境は、程度の違いはあれ日本も同じだと言える。ただ日韓で大きく違っていることは、韓国の「88万ウォン世代」には政治を変えようというエネルギーが感じられることだ。日本の20代の若者にもそうしたエネルギーを期待したいが、次の選挙で選択肢を間違えると、韓国の若者たちと同じ運命をたどるかもしれない。「88万ウォン世代」の憂うつは、日本の若者と決して無縁ではない。
IMF危機
1997年12月、アジア通貨危機の影響でデフォルト(債務不履行)寸前の危機に直面した韓国は、98年にIMF(国際通貨基金)から570億ドルの緊急支援を受け、IMFの指導下で経済の立て直しに取り組むことになった。
維新世代
朴正煕大統領が「維新憲法」を公布し、独裁政治を強めた1970年代の高度成長期に、青春時代を過ごした世代。現在の50代で、「88万ウォン世代」の親の世代にあたる。
386世代
1990年代に30代を迎え、80年代の学生時代に民主化運動を担った、60年代生まれの世代を指す言葉。現在の40代を指す。